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      第42話

「お前も忘れた訳じゃないだろ。それに、オレが大祖父様との誓約を破ったのは確かなんだ。その事実が覆ることは決してない」  全てを諦めたその表情をする兄に、俺は何も言えなかった。  冬のお昼は時が過ぎるのが早い。太陽が少し傾き始めた時間にアフタヌーンティーは複雑な空気感で終わった。俺はいつもの笑顔を浮かべて自分の車に乗り込む兄を見送りつつ、ロータリーに迎えの車が来ていることを視界の端で確認する。  ーPrrrrr... Prrrrr...  迎えの車に向かいつつ着信を確認すると、ドイツにいるはずの父からだった。 「今そっちは朝の8時でしょ?大丈夫なわけ?」 〈...仕事よりも家族の方が大切だろう〉  電話越しの父は少し怒っているようだ。いつもより声のトーンが少し低い。院瀬見家が創業家である大企業は、現在決算期真っ只中。その関係で父はドイツにわざわざ飛んでいるのだ。    まぁ顔には出さないけど、あの父は家族大好きだからな。愛しの母さんそっくりな兄貴が気になったんだろうな。  電話の後ろでは父の出張に珍しく同行した母の「今日もお買い物に行っていいかしら?」という弾んだ声が聞こえてくる。  普段はのほほんとしている母だが、ああ見えて以外と俺たち兄妹のことを信用してくれている。別に、父が俺らのことを信用していないといっている訳ではない。ただ母は自分のやりたいように、あなたが幸せなら。とよく口にする。過保護な父と信頼してくれる母と言ったところだろうか。  ...ぶっちゃけ、過保護な父はちょっとウザい。そんなこと言ったら顔には出さずにかなりのショックを受けるんだろうが。 〈葉琉はどうだった。最近様子がおかしいのはお前も分かっているだろう〉 「もちろん。表面上は特に変わった様子はなかった。精神的にかなり際どいところまで来ていると思う」 〈どうにかできないのか〉 「それができるのは紫桜さんだけだと思うけどね」 〈......〉  軽く冗談のつもりで紫桜さんの名前を出したが、スマホから沈黙が帰ってくる。 「俺らじゃもうどうにもできない。それは父さんだってわかってるだろ」 〈......分かっていても納得したくないだろう〉  子供のように拗ねた感じの父に、思わずためいきをが出るのは仕方ないだろう。  いつもは威厳たっぷりで頼れる父なんだけどな...。 「大祖父様にも伝ってるんだろ?」 〈葉琉には内緒で専属護衛がついている。なんなら我々よりも先に報告が行くだろうな〉 「兄貴、大祖父様が護衛つけてること気づいてるけど。なんなら、護衛じゃなくて監視だと思ってたけど」 〈あの子は鋭いからな...。恐らく私がつけている護衛にも気づいているんだろう〉  遠い声をする父。どこか抜けている兄貴だが、そういうところは鋭い。視線や気配だけで護衛の位置を特定したときは本当に驚いた。兄貴曰く「知らない方が可笑しい」とのことだ。  てか約50m先の人間の視線や気配がわかる訳ないだろ。そんなの人間じゃねぇ。 〈......――し、颯士、聞いているのか〉 「あ、ごめん、聞いてなかった」 〈しっかり聞け。来週末にある新年会には参加しろ政財界を始め、色々なところのトップがくる。跡取りとして顔を売っておいて損はないはずだ〉 「跡取りには兄貴の方が適任だと思うけど?」 〈......世間がそれを認めてくれると思うのか。それに、本人がそれを忌避している以上強要もできまい〉 「世間ねぇ...」  Subに対する世間の風当たりはそこまで酷いものではない。しかし、それが企業上層部になると話は別だった。Subの(さが)はDomのGlareを受けてしまえばそれに従いたくて仕方がなくなるというもの。それを逆手に取り、無理矢理契約を飲ませるDomがいるという。もちろん、表向きは”いない”ということになっているが、実際どれだけいるだろうな。  兄貴が表舞台から去ることを決めた理由のひとつもそれなんだろうなと思っているが、実際のところはわからんな。 〈お前が何を考えていることはわかるがな。...もちろん、颯士が嫌なら私の後を継がなくてもいいが〉 「嫌じゃないさ。俺は父さんの事を尊敬しているし、父さんの仕事も尊敬しているしやりたい。ただそれだけだよ」 〈......新年会までには日本に戻る。また後でな〉  最後の父は笑っているような声音だった。 「さてと。兄貴の事は紫桜さんに頼むかなぁ」  頼むことが吉と出るか凶と出るか。  ...なんか凶になりそう。  車に乗り込み、俺は元麻布にある院瀬見本邸への帰路へと着いた。 「はぁ...。さすがにそろそろ限界かな」  真っ暗なマンションの一室。リビングのテラス戸はレースカーテンのみ引かれており、月明かりが冷たく部屋を照らす。  アイボリーのシン・ソファで仰向けになり、左腕を目元に当てている葉琉。右手には大量の抑制剤が握られていた。  通常、抑制剤はplayをできないSubが不安定になったときに一週間に一回、朝に一度のみと決まっている。不安定になりすぎてSub drop(サブドロップ)に陥る一歩手前でも4日に一度、朝に一錠のみと決まっていた。理由は簡単で副作用が重いから。主な副作用は吐き気や頭痛。酷くなると腎不全や肝機能障害。最悪死に直結する。  服薬するにおいて、とても気を付ける必要がある抑制剤だが、葉琉は毎日朝に飲むという体を壊さんばかりの過剰摂取をしていた。  ”これ以上抑制剤を服用すると間違いなく近いうちに死ぬぞ、葉琉くん”  これは先週かかりつけの病院を受診したときの医者の言葉。頭痛が酷くなり抑制剤の残りも減ってきたため受診したにも関わらず、余命宣告をされたオレ。まぁそろそろ言われるだろうと思っていたからそこまで驚かなかったけど。  そのまま寝落ちしたのは自分の死が近いことを嘆いているわけでも、恐れて現実逃避したいわけでもなくただ単に眠かったことは気にしないでくれるとありがたい。

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