翌日、朝9時に颯士と美智瑠がやって来た。しかしそこに葉琉の姿はなかった。 「七々扇社長、葉琉はどこに？」 「私のことは紫桜でいい。...葉琉はまだ寝ている」 　リビングに通された2人。颯士はアイボリーのソファに目を取られ固まっていたが、美智瑠の質問で答えにくそうに視線を逸らした紫桜へジトッとした目線を送る。 「...じゃあ紫桜さんって呼ぶわ。でもね、絶対安静を条件に退院した葉琉に無理をさせるのは感心しないわね。...気持ちがわからなくもないんだけどね。あ、キッチン使うわよ」 　はぁ...。と大きなため息を吐き、キッチンへと向かう美智瑠。紫桜は無表情で”ああ。自由にしてくれ”と言いガラステーブルに置いてあったコーヒーカップを手にとる。その間も颯士は紫桜に視線を向けていた。ただしかなり据わっていたが。 「葉琉の朝食はまだなんでしょ？颯士くんも何か食べる？」 「...紅茶ください」 　ぶっきらぼうに答える颯士。紫桜も気まずいのか、付いてもない70インチ以上の壁掛けテレビに視線を向けている。 「寝室は上でいいのかしら」 「ああ。他の部屋も自由にしてくれて構わない。二人の部屋は玄関からすぐの2部屋を用意した」 　2人が泊まることを前提としている紫桜の発言に颯士の機嫌は少し戻ったようだ。美智瑠が用意してくれた紅茶に楽しそうに口をつけた。 「あ、これマリアージュフレールじゃん」 「あら、知ってるの？」 「そりゃ、兄貴の好きな紅茶の一つだから。親父のフランス土産は決まってここのダージリンだったし」 　懐かしむような颯士の話に、紫桜は密かにこの紅茶を買ってきたのが正解だったのだと安心していた。 　颯士と紫桜の緩みきった表情を見て、キッチンにいた美智瑠は呆れるようにため息をついたあと葉琉のために玉子粥を作り始めた。 「そろそろ仕事に行くが、あとは頼んでいいか」 「言われなくても俺らが兄貴に無理させるわけないだろ」 　何言ってんだ。と颯士から副音声が聞こえてくる。美智瑠に窘められた颯士はソファに座り自分のノートPCを取り出した。 　プライベートのスマートフォンへ第二秘書から迎えに来たというメッセージが入り、寝室へ一度行くとジャケットをキッチリと着て仕事へ行く。 　残された颯士と美智瑠は葉琉が起き出すまでそれぞれ課題や勉強、仕事をして待っていた。 　結局葉琉が起き出してきたのは正午前だった。 「兄貴、おはよう」 「お粥あるけど食べるでしょ？」 　満面の笑みの弟とキッチンでお粥を温める親友の姿に、葉琉は”本当に来たのか”と呆れながらも感謝するのを忘れなかった。 「おはよう、颯士。美智瑠もありがとう」 　気絶するように意識を失った葉琉を風呂に入れ、葉琉のために購入していたタオル生地のパジャマを着せてくれた紫桜。起きたとき隣にいたはずの紫桜がいなかったことに少し寂しくなったが、家族しか知らないと思っていた”パジャマはタオル生地”という変な拘りを紫桜が知っていたことに驚きと嬉しさでいっぱいになっていた。 　その余韻がまだ残っていたのだろう。幸せです。と言わんばかりの葉琉の雰囲気に颯士は紫桜への嫉妬を覚え、美智瑠はそんな2人を見て呆れていた。 「そういや颯士、飛び級だって？どういうことだ？」 「あー、単位認定外の他大学の単位とか検定の認定単位とか取りまくって卒業資格をもぎ取っただけ。兄貴が会社を継ぐにしても、俺が継ぐにしても経営のノウハウは必要だと思ってウォートンに行こうかなって」 「ペンシルベニアか？」 「そう。兄貴に負けないようにって」 　照れたような声音の颯士。気になって目線を向けるとこちらに背を向けた颯士がノートPCで作業しているのが見えた。逆光になっているのでちゃんとは分からないが、颯士の耳が赤くなっているようだった。 「そうだ。美智瑠にお願いがあるんだけど」 「なにかしら？」 「オレの部屋からタブレットPCを持ってきてくれないか」 「仕事しようっていうならダメよ？」 「いや、別にそんなつもりは...」 　漫画のようにギクッと企みがバレたような驚き方をする葉琉。その様子に美智瑠は呆れ、颯士は仕事人間の兄をどうやって休ませようか思案し始める。 「仕事をしないっていうのが条件で退院したのよ？忘れた訳じゃないでしょうね」 「......」 　怒られる子犬の如く玉子粥を食べながら小さくなる葉琉。 「たく...。一応言っておくけど、私が見つけなきゃ死んでたかもしれないのよ？」 「...大袈裟だって」 「なぁ兄貴、なんでそんなに自分に対して無頓着なわけ？」 　ノートPCを置き、こちらへと歩いてくる弟。なんで？と表情に書かれているがどこか怒っているような、悔しいような、負の感情で覆われている。 　そんな弟を見て、葉琉は一瞬言葉を詰まらせるが正直に話すべきだと思い口を開いた。 「...別に無頓着な訳じゃない。まだ大丈夫だという確証があるから大袈裟だっていってるんだ」 「あれが大丈夫？あなた本気で言ってるの？」 　正気を失っていた葉琉を見つけた美智瑠は、この親友が何を言っているのか本気で分からなくなっていた。Subにとって不安が何よりも大敵だというのはDomやSubの常識だ。Normalからすると軽く考えている人が多いが、同じような境遇を持つSubやSubを溺愛するDomからすると不安を抱え込みすぎたSubが正気を失い何をするか分からなくなるという事実が何よりも恐れていることだった。そしてその多くは消息を絶ち自殺するケースが多い。 　颯士も美智瑠も高ランクのDomだ。大切な家族(親友)が自殺しかねない状況だったというのに、当の本人はそのことを楽観視している。 　どうやってこのバカに分からせてやろうか。 　呑気に上機嫌でお粥を食べている葉琉を裏腹に、2人の今思っていることは完全に一致していた。