70 / 87
第69話
葉琉が入院して約1ヶ月。一週間に一度あった定期検診で安城医師から自宅静養を解禁された葉琉は久々にNIIG東京本社へ出勤していた。久々の社長第1秘書の登場に他の社員は騒然とする。
「神代君、復帰おめでとう。けど、無理は禁物だからね」
「河本室長、長い間離職してしまい申し訳ありませんでした」
AM7:27。始業時間までまだ約1時間半もあるというのに、河本室長は秘書課にいた。いつも笑顔を絶やさない室長は他の社員から"菩薩"とあだ名をつけられているが、実際はこの人が恐ろしいほど仕事人間で厳しいか知っている秘書課所属たちは”鬼子母神 ”と呼んでいる。
謝ると同時に90°の最敬礼を綺麗に行う葉琉。そのお辞儀を見て、河本室長はやはり葉琉が一般階級の家の出ではないことを確信する。
「そうそう。気づいているとは思うけど、神代君が本当はSubで尚且つ社長のパートナーであることが社内に広まっている。Subであるということで何か言ってくるようなアホはすぐに私にしらせてほしい。すぐに対応するから。パートナーであることに突っかかってくる死にたがりは、すぐ社長に言った方がいい。というより、ぜひとも言ってくれ。じゃないと私たちに被害が出る」
最初は真剣な顔つきで葉琉に説明する河本だが、後半は遠い目をして気苦労が絶えないと言わんばかりの口調だった。葉琉も前半は真剣に聞いていたが、紫桜に関しては苦笑するしかなかった。
8時を過ぎる頃には他の秘書課メンバーも次々と出社してくる。デスクでティム からの引き継ぎを行っている葉琉を見ると、全員が気遣ってくれる。いつも無口で仕事第一の近衛秘書も「無理しそうならこっちに回せ」とフォローすると言ってくれるほどだ。そんな先輩たちに内心感謝と尊敬の念が高まる葉琉は、さらに仕事に打ち込んだ。
「そういえば神代君、社長との結婚式はどうするの?」
「その前に神代君の実家への挨拶じゃない?」
1年前と同様、秘書課にあるカフェスペースへと連行された葉琉は加賀女史と瑠璃川女史、香月女史と姫野女史に囲まれていた。サラダベースの彼女たちの昼食とは違い、葉琉の昼食は紫桜社長が選んだ玄米と豆腐ハンバーグのお弁当。栄養バランスを考えられた弁当だと社長はいっていたが、それをみた女史たちにジト目で「...重」と呟かれ、近衛秘書と壬生女史に無言で茹で玉子とカロリーメイトを渡された時は思わず社長に殺気が芽生えた。
「えっと、自分の実家には今週末に社長と行くつもりです」
「じゃあ結果は来週聞けるのね」
「真壁専務も気になっているみたいだから教えてね」
「森崎常務がそわそわしてたのって気になってるってことなのかな」
目を輝かせている加賀女史と瑠璃川女史。香月女史は自分の上司が朝からそわそわしていた理由が意外すぎて小首をかしげている。しかし、森崎常務のもう一人の秘書である近衛秘書が少し離れた席で小さく頷いているのを見るに、あの厳しいと評判の常務も葉琉と紫桜社長の関係が気になっているらしい。
思ったより注目されていることに葉琉は思わず冷や汗が背筋を伝った。
そしてそんなことを一切気にしていないのがこの人、紫桜社長。昼食が終わり、午後の業務を捌く葉琉とは違い、紫桜社長はリモートでヒューストン支社の会議に参加していた。
社長室の大きいデスクで会議に参加する社長。葉琉はそんな社長をチラチラ気にしながら黙々と仕事を続ける。以前ならこんなに社長のことを気にならなかったが、正式に恋人になってからというもの葉琉は紫桜社長のことが気になって仕方なかった。
...いや、好きな人と同じ職場にいると嫌でも気になるだろ。
自分がこんなに"恋人"という存在に振り回されるとは思ってもいなかった葉琉は、勝手に自分に悪態を付き不機嫌になっていく。
「...葉琉、どうした」
そんな葉琉に気づかないはずがない紫桜は、会議が終わったことにも気づかない葉琉の後ろに回り顔を覗き込んでいた。
「っ!驚かせないで下さい」
「ボーッとしていただろう。葉琉が心ここに在らずなのは珍しいからな」
やっぱり体調が悪いのか。と眉尻を下げ心配そうな表情をしている紫桜に、葉琉は思わず後退るが紫桜に支えられた。
「もう帰ろう。急な仕事は河本に連絡させればいい」
「ダメですよ。室長は新人研修の担当でもあるんですから。...その代わり定時で私は帰らせてもらってもいいですか?」
「...わかった。だが帰るのは葉琉一人ではなく、俺も一緒だ」
それだけは譲れない。と目で語ってくる紫桜社長。一瞬息を飲むが、この恋人はこうなるとどうやっても意思を変えないことを思い出し、嬉しさを滲んだため息を吐いて不意をつきキスをした。目を見開き固まってしまう社長に悪戯が成功した子供のように微笑む秘書。
「社長でも固まることってあるんですね。ーーっ!ちょ!」
「......今のは葉琉が悪いと思わないか」
大量のGlareを葉琉に浴びせる紫桜。その瞳が欲に塗りたくられているのが一目でわかった。ここは会社だからと恋人の愛しいGlareを拒否する葉琉。本心では拒否したくないため、自分の中で生じた矛盾に自然と涙が溢れてくる。
「っ悪かった、葉琉。だから泣かないでくれ」
普段自分を表に出すことが少ない恋人が一筋の涙を流している。それだけで紫桜の動揺は激しかった。葉琉を正面から抱き締め、背中を頭を優しく撫でる。
「...すみま、せん...」
自分が泣いていることに気づいていなかった葉琉は今の状況に驚き、気づいてすらいなかった葉琉の状況に心を痛める紫桜。自分のことには疎いと思っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。
「もう謝らないでくれ。今日は定時に上がって一緒にディナーに行こう。一緒に行きたいところがあるんだ」
静かに泣く葉琉を撫でながら優しく言う。自分にどこまでも甘く深く愛情をくれる恋人に葉琉はゆるゆると腕を紫桜の腰に回した。
「...ちょ、溢れてるんですけど」
腕を回して弱く抱きつくと自然と紫桜のGlareが溢れる。そこを指摘すると、この恋人は「煽る葉琉が悪い」と開き直ってくださった。
《青藤の錯綜 終》
ーーーーーーーーーー
昨日更新できずにすみませんでした
明日は更新できます!
ともだちにシェアしよう!