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      第77話

「おはよう。…今日は社長と一緒じゃないのかい?」 「おはようございます。今日は私用で重役出勤だそうです」 「はは。なるどほね。それじゃあこれ頼まれてくれないかな」 「経理にですね。分かりました」  松濤別邸の翌日。結局松濤別邸に泊まった葉琉たちは特に何をするでもなく朝を迎えた。よって葉琉はほぼ初めてと言っていい”恋人からお預け状態”である。  秘書室で先に仕事を始めていた河本室長から社長と一緒に出社していない事を少し驚かれつつ、経理部へのお使いをお願いされる。 「そういえば神代君。来週末にある懇親会に社長は出席するのかい?」 「…ああ、医師会の懇親会ですね。出席予定ですが、何かありました?」  特に何かあった記憶がない葉琉は、神妙な面持ちの河本に首を傾げる。そんな河本は少し眉を顰め、言いたくないのか重い口をやっと開いた。 「…いや、副会長の息子さんが西園寺家相手に裁判沙汰になっていると噂がね」  なんとも物騒極まりない噂だ。 「今年3期目の橋本副会長ですよね?会長や会員医師からの信頼も厚く、患者さんからも慕われているって」 「そうなんだけどね。聞いた話だと、副会長の次男の番が西園寺家の次男に襲われたからとかって話なんだが、西園寺家としてはその番が誘惑してきたからこちらに非はないってことらしくてね」  思わず拳に力が入る。左の手のひらに爪が食い込み、流血しているが気づく様子のない葉琉。河本室長から見えない位置に手があったため、気づかれる事はなかった。 「…ちなみにどこからの情報なんですか?」 「昨日たまたま医師会の会長と食事をしてね」 「そういえば室長の奥さんと医師会会長の奥さんって旧知の仲でしたね」  意外な繋がりだがこの河本室長の奥さん、医師会の藤崎会長夫人と同じ大学の出て40年来の旧知の仲だった。それを知ったのは結構前だが、まさかそこからこんな重要な情報が出てくるとは。  葉琉は思わぬ情報に驚きつつ、最近西園寺当主が揉み消したがっていることがこの裁判のことだと感づいた。 「社長は去年の8月にはその事を知っていたみたいだけどね」 「社長がですか?」 「昨日それとなく聞いたら”首を突っ込まないほうが賢明だろうな”って呟いていたからね」  去年の8月というと、西園寺が参加していたパーティの時だろうか。  葉琉は西園寺が参加者リストに載っているパーティは徹底的に避けていた。もしかしたら社長も薄々気づいているかもしれないが、特に何も聞いてこないのでそのことを伝える義理もない。  まぁ言わない理由を言うと監禁されそうだけど。 「懇親会には神代君が同行するんだろう?くれぐれも巻き込まれないようにね」 「ははっ。そう簡単に巻き込まれる訳ないじゃないですか」  今回の懇親会には西園寺当主と次期当主は参加しないという。それは本人たちから医師会に連絡があったらしく、例の如くどこから入手したか聞きたくもない社長からの参加者リストにも名前はなかった。   「それじゃ、行ってきます」  自分の分の領収書なども持って葉琉は経理部へと向かうべくエレベーターに向かう。 「…なるほど、副会長の次男の番ね」  西園寺の問題児は自分がAランクのDomであることをいいことに、Subを無理やりものにしたりNormalを惚れされて捨てるなど、まさにクズそのものだ。定期的に西園寺の情報を集めている葉琉は最近次男が大人しいなと少し不思議に思っていたが、遊んでいる場合ではなかったらしい。 「クズはクズなんだな…」  呆れつつも道理だな。と感じた葉琉は無意識に呟いていたらしい。一緒にエレベーターに乗っていた一般社員がいつも笑顔で優しいという印象しかなかった葉琉が、まさか感情の読み取れない無表情でそんなことをつぶやく瞬間に遭遇し固まっていた。  一般社員を特に気にするなく経理部へ河本室長から頼まれた書類などを渡し、戻ってきた秘書室で他の先輩秘書との挨拶もそこそこに社長室へと入る。昨日の名残なのか、ほのかに香る紫桜のGlareに少しの興奮と恋人が今いない事への喪失感をそこそこに自分のPCを立ち上げる。  高いセキュリティを誇る葉琉のノートPCは、異なるパスワードを何度か入力しやっとデスクトップへと辿り着く。役員からの確認メールや各部署からの書類が添付されたもの。他社秘書からの日程調整のメールなど、様々なメールを裁きつつ必要であれば添付書類を印刷したりなど、紫桜社長が来る前に片付けられる自分の仕事を裁いていく。 「俺がいないほうが仕事が捗るんだな」 「っ!…驚かさないでいただけますか」  圧倒的集中力で周りを完全にシャットアウトしていた葉琉は、紫桜が社長室に入ってきたことに一切気づかなかった。背後から若干のGlareと共に不機嫌そうな上司兼恋人に呆れながらも、その姿をみて嬉しい自分に葉琉は内心驚く。 「驚かしたつもりはないんだがな」  苦笑しながら可愛い恋人の頭にキスをする紫桜。数時間前に送り出した恋人は、今日中に片付けなければならない最低限の書類を既に終わらせていたらしい。自分のデスクに少し盛られた書類を見て少し悲しくなる。 「いや、別に社長がいないからという訳では」 「ならあの書類は?今日中のものだろう?」 「…そうですが」  言い淀む葉琉に紫桜は少し悪戯をしたくなる。 「なら、やはり俺がいないほうがいいのかもな」 「っ、それは」  拗ねた様な表情をする葉琉。これ以上は可哀想だなと思い、抱き締めようと腕を回そうとした瞬間。 「…今日は定時に帰りたいんですよ。どれだけお預けくらってると思ってるんですか」  拗ねた葉琉の今にも消えそうな小さな声を紫桜の耳が拾う。  まさか定時に上がるために仕事を片付けていた?いつもツンな葉琉が?  紫桜は一瞬目が点になるも、次の瞬間盛大に抑えきれなくなったGlareを可愛すぎて今にも食べてしまいたい恋人へと向ける。それを珍しく受け入れている葉琉を見るに、かなりお預けが嫌だったらしい。 「…ここで襲ってしまいたが、さすがにまだ午前中だからな。なんならさっさと仕事を片付けて半休にしよう」  甘い紫桜の誘惑に葉琉は抵抗することなく頷いた。

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