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第78話
「ちょ、社長!」
「ちょっと黙ってろ」
「黙りませんて!!」
葉琉と紫桜の攻防が午後一番の社長室で繰り広げられる。
「ちょっと紫桜、神代君可愛がるのは家帰ってからにしてよ」
「そうですよー、紫桜社長。さすがに神代君がちょっとかわいそうです」
そんな社長と秘書の攻防をのほほんと見ているのは副社長の藤堂とその秘書、姫野だ。13時という真昼間にも関わらず、藤堂副社長の膝の上で夫に甘えている姫野女史。しかし姫野女史のお腹に回る腕がガッチリと固定されているあたり、この状況を一番楽しんでいるのは藤堂副社長なのかもしれない。
「社長!?脱がさないでくださいよ!」
「だから大人しくしていろ。…麗央、暇ならちょっと手伝え」
「嫌だって。だって僕が神代君に触るのはダメなんだろう?」
「当たり前だ」
そんな理不尽な。と呆れながらも従兄弟とその恋人の攻防を楽しく見守る藤堂。社長室の片隅で従兄弟の手によって無理やりスーツを脱がされそうになっている可哀想な恋人兼秘書君は結構必死に従兄弟を止めている。
が、そんなことお構いなしで恋人のワイシャツのボタンをほぼ外してしまった紫桜。葉琉が羞恥で赤面し若干の涙目で紫桜を睨む。
「あー、神代君。その表情はちょっとダメかも」
「えっと…?」
苦笑しながら教える藤堂だが、当の本人は頭にクエスチョンマークを浮かべているようだ。横に立っている恋人が一度完全崩壊した理性をかき集めて応急処置していることに気づいていない。
「神代君、これを試着してくれるかい?」
そんな恋人たちの面白おかしい攻防を楽しく傍観していた河本室長が葉琉に一着のワイシャツとジャケットを手渡す。無地グレーでシルク生地のワイシャツは手触りがよく、渡されたジャケットは所謂パーティースーツというものだった。光沢があるものの上品で大人しい印象のグレーのジャケット。どちらかというと黒に近いそれは一見無地に見えるが、光の当たり具合でストライプが浮き上がる。
見るからに高級オーダースーツに葉琉はうんざりしつつもワイシャツとジャケットに手を通す。
「サイズは大丈夫のようですね」
にっこりする河本室長は紫桜に軽く頷く。紫桜は自分が生地から選び、オーダーしたスーツを恋人が着ているという事実がよほど嬉しいらしい。笑顔というよりはニンマリとした顔をしている。
「…なんでサイズ知ってるんですか」
「だって神代君、たまにオーダースーツ着ているだろう?それを社長がちょっと拝借してね」
ニコニコの河本室長。どうやら父が就職祝いでくれたスーツを元に作ったらしい。そりゃサイズがピッタリなわけだ。
「神代君、そうやって見ると本当に貴族だね」
「…それ、褒めてませんよね、藤堂副社長」
ジト目を藤堂に向ける葉琉。葉琉が院瀬見家の長男であるということは退院した時に紫桜の家族、そして河本室長には伝えてある。河本室長を含め、どこか納得していたのには驚いた葉琉である。なんでも”一般人に紛れようと必死な上流階級の人間”と言われ、自分の努力は一体何だったのかと少し落ち込んだくらいだ。
「とりあえず、来週末の懇談会にはそれで行こう」
「これでですか?」
「俺が選んだ服で着飾った葉琉を見せびらかすのもいいだろう」
ホクホク顔の紫桜。圧倒的高位のDomが見せる可愛い嫉妬心に不覚にもキュンとした葉琉だが、周りからの生暖かい視線に思わず紫桜を睨んだのはご愛敬だろう。
「そういえば紫桜、医師会の副会長…橋本さんだっけ。彼の息子さんはどうなったんだ?」
「…ああ、揉めてる彼か」
話は葉琉が午前中、河本室長と話していた医師会副会長の次男の件に移る。
姫野は真面目な話が始めるからと藤堂の膝から降りようとしたが、それを察した藤堂に抱き込まれていた。それを見て何を思ったのか紫桜が葉琉に強い視線を向けてくる。
「ダメです」
藤堂副社長と姫野女史の距離感を羨ましく思ったのだろう。葉琉の方へ差し出されそうになっていた手が宙を舞う。
「…葉琉」
「……あとは家に帰ってからです」
顔が完全に赤面しているのを自覚している葉琉は、それを隠すためにいそいそと元着ていたワイシャツとジャケットを手に取る。
「それじゃあ、ちょっと着替えてきます」
脱兎の如く出ていく葉琉。紫桜はそんなに嫌だったのかと盛大に誤解しながら落ち込み、それを見ていた藤堂夫妻は二人して腹を抱えて笑い、河本は”若いですねぇ”とまだ40代であるのに年寄りの様な心境になっていた。
「…それで、西園寺と裁判になるって本当なのか?」
ある程度笑って満足したのか、藤堂が話題を戻した。
「今回は番っている相手に手を出しているからな。橋本副会長始め、藤崎会長も裁判には乗り気らしい。もちろん、当事者である次男とその番もな」
「…面倒な事になったな。西園寺と言えばいつもの如く揉み消しが上手いだろう」
世間一般に西園寺は”茶道の名家”という認識だが、上流階級の人間からすると”揉み消しが上手であまり関わりたくない相手”という認識だ。しかし茶道の名家であることは事実で、西園寺の門下生である事が一種のステータスになっているため関わるしかないが、できれば一門下生という立場でいたいというのがほとんどの上流階級の人間に考えでもあった。
そんな面倒な名家と裁判沙汰になろうとしているのは代々政治家や医者を輩出している橋本家である。両家と少なからず交流があり、Domとして名家である七々扇家が巻き込まれなければいいなと紫桜も麗央も思っていた。
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