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第82話
結局紫桜が帰宅したのは日付が変わった後だった。会長にかなり酒を飲まされたのか、お酒に多少耐性がある紫桜がほぼ泥酔している。
「このような夜分に申し訳ありません、葉琉様」
「こちらこそ、社長をありがとうございます」
苗字呼びから明らかに変わっているが、この際特に気にしない。葉琉はほぼ意識を失っている紫桜を受け取ろうとするが、上位α の紫桜と上位とは言えΩ の葉琉ではどうやっても体格差などが生じる。
「このまま私が運びましょう」
笑顔のMr.ウェストンが紫桜に肩を貸し寝室のベッドへ放り投げる。
そう、”放り投げた”。
「……えっと、」
「これぐらいが今の紫桜様にはちょうどいいかと存じます」
これ以上は何も聞かないほうが良さそうだ。
そう悟った葉琉は笑顔で紫桜を放置しMr.ウェストンとリビングのテーブルに座る。
「おや、福寿園の煎茶ですか。それに金蝶園の水まんじゅうとは、葉琉様の和菓子好きは筋金入りですね」
「本当は砂糖不使用の和菓子が一番好きなんですが、なかなかなくて。和菓子の好きなところは後に引かない甘さなんですよ」
「私も会長の御伴で世界中のお菓子を食べましたが、日本の和菓子は別格です」
抹茶餡の水まんじゅうを満足そうに食べるMr.ウェストン。どうやらこし餡よりも抹茶餡の方がお好みらしい。一瞬にして一つ目の水まんじゅうを完食している。
「そういえばMr.ウェストン。なぜ名前呼びに変わっているんです?」
「本日紫桜様が葉琉様を婚約者とすることを宣言致しましたので、今後葉琉様は”次期社長夫人”ということになりますれば」
「……はい?」
まさかの話に煎茶を淹れていた手を止めてしまう葉琉。自分が紫桜の恋人兼秘書であることは自覚していたが、まさか預かり知らぬところで婚約者になっていたとは。
固まる葉琉を前にウェストンは苦笑するしかなかった。ただ家族に”恋人を婚約者にしたい”とだけいうなら撤回も簡単だが、紫桜は客人に宣言してしまった。それも婚約を望んで押しかけてきたマルティネスの娘をその父親に向かってだ。
「…ちなみに撤回などは」
「ほぼ不可能でしょう。何せそれを聞いたのは会長だけではありませんから」
ウェストンのその言葉に葉琉は家族以外の誰かに言ったのだろうと理解した。
まだ混乱している頭ではなにも考えられない。そう思い冷静になるために煎茶を淹れる。
「それから、今度参加予定の医師会懇親会には紫桜様の婚約者として参加して頂ければというのが当家の意向です」
「…それは構いませんが、七々扇家の意向ですか」
「はい。とはいえ、会長は最後まで本人に任せるべきではと仰っていました。ですが他の外戚の方々が色々とうるさくて」
名家にはありがちの要らない”外戚”。主に七々扇家から娘が嫁いだ家が外戚となるが、Domの中でも名家中の名家である七々扇家に何かと口出しし、自分も七々扇家の一員だという事を周りに占め知らせたいらしい。
ウェストンは溜息を吐きながらそう話してくれ。
「…まぁ、どこの家もそうですよね」
「…葉琉様もそうでしたね」
遠い目をして呆れる葉琉に葉琉の出生を知っているウェストンは苦笑する。
院瀬見家の外戚たちも何かとうるさいからだ。葉琉がSubであると判明した高校入学時も当主である瑠偉が何も変わらないと宣言しても、葉琉の今後に関してグチグチ行ってくる外戚が多かった。
「そうそう、会長や紫桜様には話していませんが、貴方はなぜそう危険な事に首を突っ込むんです?」
「……何の話でしょう」
笑顔のまま穏やかにそう聞いて来るウェストン。葉琉はとぼけるように笑顔で小首をかしげる。
……。
……。
二人の間にピリッとひりついた空気が流れる。しかし葉琉が何も言わないと分かったのか、その緊張感を先に解いたのはウェストンだった。
「まぁ構いません。ですが一つだけ私とお約束していただけませんか?」
「Mr.ウェストンが気にするまでもなく、七々扇家にご迷惑をかける事は絶対にしませんよ」
「いいえ、そういう事ではありません。何かあれば頼ってくださいと言いたかったんです」
まさかのウェストンに葉琉は虚を衝かれた顔をする。しかしウェストンの笑みは変わらない。それどころか孫を心配している優しい好々爺だ。
「…私の末っ子がルモニエ夫人と知り合いでしてね。葉琉様の事は夫人から息子を通して存じております」
まさかの繋がりにさらに声を失う葉琉。
「ですので、貴方の過去は恐らく紫桜様より知っているかと思われます。会長はなんとなくお気づきのようで”何かあったら助けてやれ”と厳命されております」
七々扇会長は初めて会った時から葉琉が院瀬見の長男だと見抜いていた。やはり長い間七々扇家の大黒柱の目は誤魔化せないらしい。観念した葉琉は一息つくと、フッと力を抜いてウェストンに頭を下げた。
「ご配慮ありがとうございます。これから行う事は院瀬見家の当主や他の家族を含め誰も知りません。もちろん、親友の美智留やルモニエ夫人もです。オレの情報屋の様な事をしている京も最終的に何があるのか知りません。…最後はどうなるか分かりません。できるだけ安全な道を選択していますが、何かあったときはよろしくお願いします」
「もちろんです。葉琉様」
ウェストンの笑みがさらに穏やかに優しく、そして深くなった。
《黒橡の白露 終》
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ちょっと無理やり感半端ないけどとても温かい目で読んでいただければ…!
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