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臙脂の虚脱 第83話

 8月27日土曜。時刻は夜19時。葉琉は先週社長室で紫桜に襲われるようにして試着した無地グレーのワイシャツとグレーのジャケットを羽織り、いつもは軽くしかセットしない髪型も紫桜専属の美容師にセットしてもらっていた。そのお陰か、至高のDomである紫桜の隣に立っても一切見劣りしない程だった。 「…いや、目立ち過ぎだな」  目の前で初めて会うクライアントに挨拶をしている葉琉を横目に、紫桜はそう呟く。ようやくただの恋人から婚約者にすることができた紫桜は以前のパーティとは比にならないほと葉琉に対して過保護になっていた。  見せびらかしたいと思っていたが、実際美しく着飾った葉琉が大衆の目に晒されるのがこの上なく不愉快らしい。懇談会が始まって終始眉間に皺が寄っている。 「……社長、今は仕事中です。というか、仕事中だと思って下さい」 「仕事だとしても綺麗過ぎる恋人が有象無象の視界に入ると思うとな」  葉琉を抱き寄せながらそう宣って下さったこの婚約者は、周囲に威嚇するように鋭い視線で参加者を牽制しているのが手に取るように分かる。なぜかお揃いの無地グレーのワイシャツを着る紫桜は葉琉がちゃんと後ろにいるのか終始気にしながら、次々に挨拶に来る取引先に張り付けた笑みで対応する。葉琉が少し離れようものなら即捕まえていた。 「…七々扇社長、彼は秘書では…?」  とは挨拶をしに来ていた医師会の会員医師。確か某大学病院の院長だったか。彼の後ろには香水臭い2人の娘が葉琉を睨んでいる。 「確かに秘書ですが、今は大切なパートナーです。私としてはすぐにでも結婚したいですが、まだいい返事を貰えていない物で」 「…そ、そうですか…」  甘々な紫桜に目の前の(院長)は冷や汗を流す。そんな狸とは正反対に娘たちはかなり憎いのか、さらに睨み付ける。 「ちょうど昨日七々扇会長にも伝えたところで、祖父も葉琉のことをとても歓迎していました」  さらに笑みを深める紫桜は葉琉をさらに抱き込むように腰に手を回し、笑みを張り付けているがあからさまに固まっている可愛い自分のSubの旋毛に軽くキスを落とす。  そんな甘い七々扇社長を見たことがなかった周りの参加者たちの間に大きなどよめきが生じた。 「では、他にもご挨拶しなければならないところがありますので。失礼致します」  落ち着く様子のないざわつきを全く気にする様子などなく、視界の端に捉えていた一人の人物を目指し歩く。完璧な笑みで周囲の人物を惚けさせている葉琉は紫桜に連れられるがままに歩くが、その人物の前に止まった瞬間大きく目を見開いた。 「やぁ、元気だったかな?」  そこにはセピアの渋いスーツを見事に着こなした安城医師の姿があった。  本来は退院後3日に一度の頻度で通院するはずだったが、最初の2回しか受診していなかった葉琉は大粒の冷や汗を完璧な笑みの下へと隠した。 「ご無沙汰しております、安城先生。葉琉を連れていけずに申し訳ありませんでした」 「お久しぶりです、七々扇さん。あなたから毎日のように様子がメッセージされていましたからね。特に問題はありませんでした。...しかし、なぜ来なくなったのかな?葉琉くん」  安城医師はいつものように優しい笑みを浮かべているが、目元で葉琉にキレているのが丸分かりだ。遠目に盗み見ていた他の医師や参加者たちは、安城医師のその笑みを見てそそくさと立ち去って行ってしまった。 「便利ですね、その笑顔」 「君にだけは言われてくないよ?紫桜くん」  いつの間にか紫桜を下の名前で呼ぶほど親しくなっている二人。葉琉はその状況を徐々に飲み込むと、恋人が毎朝体温を測ったり素直に自分の体や精神状態を吐かなければベッドから出してくれなかった最近の過保護っぷりを思いだし、思いっきり紫桜を凝視した。 「必要なことだからね。紫桜くんがやってくれなかったら主治医の特権を使ってまた緊急入院してもらうことになっていたよ」  ため息を吐きながら呆れている安城医師に、紫桜は”冗談じゃない”と言わんばかりに葉琉の腰に回している手に力をいれた。 「そうだ、来週息子夫婦が一週間ほどこっちに遊びにくるんだ。ぜひ会ってくれないかな、葉琉くん」 「......え、」  安城医師の優しい笑みと爆弾発言に、”表舞台では絶対に素を見せてはならない”という院瀬見家の暗黙の教えを忘れ、葉琉は思わず素の反応を見せてしまう。反射や本能で院瀬見家の教えを刻み込まれている葉琉のその反応に、紫桜は驚きつつも”可愛い”という感情が全面に出ている。 「今回はどうやら仕事の付き添いで来るみたいだけど、息子のアリスも一緒にきて少しの休暇を楽しむそうだ。今年と去年のGWは都合が悪くて来れなくてね。その度に葉琉くんに会えないと悲しんでいたから」 「...そうですか」  ほんのり本当の笑みを浮かべ口角が上がる葉琉。 「本当は今年のGWに会わせるつもりだったんだが無理だったからな。今回は2日ほど休暇を取ってルモニエ家族と別荘にでも遊びに行こう」 「......え、社長、リーヌスたちのこと」 「直接出向いた取引先だからな」  満面の笑みの紫桜と安城医師。葉琉は珍しく事が飲み込めないのか、また少し間抜けな顔をして唖然としている。 「それなら別荘でなく、美味しい天麩羅を食べさせに行ってやってくれないかな。最近マイブームだと息子が言っていてね」 「わかりました。”とっておき”を用意します」  紫桜の返事に満足したのか、安城医師は崎に帰ると一言いうと会場を後にしてしまった。 「...いつもは懇談会やパーティには参加しない方なのに、安城先生」 「それだけ葉琉の様子が心配だったんだろう?定期検診はしっかり行ってくれ。次拒否しようものなら俺の仕事も放り出して一緒に病院へ行くからな」 「......はい」  人混みや騒がしい場が嫌いな安城医師はなかなかこういう場所には参加しない。そんな主治医が自分のために参加してくれたと思うと、明日にでも検診に行こうかなと葉琉は少し思っていた。

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