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第3話
あの日以来、恋一郎は夢心地で過ごしていた。ぽーっとして気も漫ろだ。
初めての数々が一挙に去来して、消化不良を起こしているのである。
初めてデートをして、人を好きになって、母親以外の異性の手料理を食べた。
初めて人に告白をした。
しかも、その人と生セックスまでした。
美乳の味に恋一郎は想いを馳せた。
『おいッ!恋一郎!?』
恋一郎は目を瞬かせ、立ち上がって気を付けの姿勢をする。
「は、はい!母上!」
母親との電話中に他事を考えてしまっていたのである。
まぁ、一年中頭の中がお正月状態な恋一郎に多くを求めてはならない。
『で、時に恋一郎。世継ぎの方とはどうだ』
「どうって…」
恋一郎は目を泳がせた。
「が、ガンガンやってます…!その…こ、子供が出来るように…!跡継ぎ…」
この期に及んで嘘を付いた。
『ほう…では一度、上京してその女子に逢ってやろう』
「ありがとうございます!」
恋一郎はペコリとお辞儀をした。もう取り返しがつかない。
『して、どんな子だ?』
「とても可愛らしい方です。お優しくて、料理上手で…お裁縫も…あ!!」
もしかして、あの日着ていたワンピースも彼女の手製のもので、それを自分としたら破いてしまったのではなかろうか。
心がチクチクと痛む。
そう言えば、逢わなくなってどれくらい過ぎた事だか。
酔った勢いで『一晩だけでも良い』としょぼついてしまった手前、易々とした真似は出来ない。
終わった仲だ。
しかしながら諦めきれない。
もう一度プロポーズしに行こうと何度も足を向けて、その途中で何度も心が折れて中止して来た経緯がある。
それでも彼女も寂しく思っていてくれたら嬉しい。
こんな事なら恋だなんて知らなければ良かった。
瞼を閉じれば彼女の優しい笑顔が浮かぶ。
ブーケ…―彼女はどうしてあれ程、可憐な人なのであろう。
『って、おーい!!!恋一郎!?聞いておるのか?』
母親は何度も叫んでいたが、「すみません。午後診の時間なので…」と理由だてて電話を置いた。
***
診察:初診
飼い主さんのお名前:橘 イズミ
ふりがな:たちばな いずみ
ペットの名前:Pちゃん
ペットのプロフィール:ペンギンのぬいぐるみ
ペットの性別:女の子
ペットのどんな事でお困りですか:朝から顔色が良くない
イズミは受付で渡されたカウンセリングシートを埋めながら、『恋ちゃん』に気持ち悪がられたり変な奴だと思われたらどうしようかと心配が募る。
妊娠したからと言って、相手の大切な職場に突然押しかけるのは無粋だと百も承知だ。
彼の勤めが動物病院だもので動物を連れて来たら受付でも怪しまれないであろうと、カモフラージュの意味で自分で裁縫して拵えたお猿のぬいぐるみが病気をしたので往診に来た…と言う筋書で逢いに来たのだが、やはり拙い真似をした。
朝刊に挟まっていた青梅院動物病院のチラシを確認して医院長の青梅院恋一郎こそ彼であると突き止めて舞い上がり、その勢いにかまけて押し掛けてしまったのである。
せめて電話一本入れておくのだった。
後悔で心臓が圧し潰されそうだ。
「お待ちの方、どうぞ」
診察室のカーテンの中から『恋ちゃん』の声がする。
ええい、ままよ。
イズミはスカートの裾をささっと直して立ち上がり、カーテンを捲った。
「あーッ!ぶぶぶぶぶ、ぶ、ブーケちゃん!」
白衣を着た恋一郎はイズミを見るや否や、椅子からしたたか転げ落ちた。
「恋ちゃん…ッ」
イズミが傍によると、恋一郎は頭に出来たタン瘤を撫でて情けなさそうに笑った。
「あはは…」
「恋ちゃん、大丈夫ですか?!」
「僕ったらいつもこんな調子で…その…格好悪くて…ごめん」
恋一郎は何とも薄暗い顔をした。申し訳なさそうに眉をハの字にしている。
「…ごめんだなんて」
イズミは大きなペンギンのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた。
「その…ブーケちゃん、お元気でしたか?」
恋一郎は探るような言葉を発した。
「恋ちゃんは?」
「ああ、いや、僕はこの通り…、いつも通り…」
取り繕うように恋一郎は立ち上がり、「あ!そうだ。此処にいらしたんだからきっと動物が病気か何かなんですよね?どうなさいましたか?」と続けた。
「その、それは…」
「どうしましたか?」
「ペンギンなんですけど」
「ペンギン?」
「はい…」
アウトや…─
完全にやらかしてしまった。
もうこれ以上変なヤツだと思われたくない。
自分は女装家だし行為中に母乳も出してしまった。
おまけに妊娠していてペットがペンギンのぬいぐるみだなんて絶対に引かれてしまう。
イズミは唇を噛み締めて否定される言葉を待っていたのだが、青梅院動物病院の医院長から返って来た言葉は意外なものであった。
「おや、…はは。可愛いペンギンさんですね。お名前は?」
「ぴ、Pちゃん…」
「もしかしてこれ、あの時のワンピースの生地では?」
「ああ…そうです…その、同じ生地で作ってこの子の洋服もお揃いで…」
イズミはPちゃんの頭を撫でた。
「では診察されて頂きますので待合室でお待ち下さい」
恋一郎はイズミからペンギンのぬいぐるみを受け取ると、「あっち」と指さして笑った。
頭の中は真っ白である。
恋一郎は言い訳に持って来たぬいぐるみの何処を診察すると言うのであろう。
診察は五分も掛からずに終了し、恋一郎はPちゃんを伴って待合室にやって来た。
「あ!恋ちゃん…」
「はい。もう大丈夫ですよ」
恋一郎はあっけらかんとした感じで「美味しいブーケちゃんの手料理を食べ過ぎです」と笑った。
「あ、あ、あのう…ッありがとうございます…」
イズミはペンギンのぬいぐるみを抱っこして頭を撫でた。
「いいえ。どういたしまして。ブーケちゃん…本当はイズミちゃんなんですね…」
「その…それは」
ハンドルネームを使っていた事に対して、良心が呵責する。
「色々事情がおありでしょう?…良いじゃない。これからはイズミちゃんって事で…」
「恋ちゃん」
『これからは』と言う事は、まだ縁に続きがあっても良いのであろうか。
「あの…実はPちゃんの事じゃなくて、恋ちゃんにご報告があって今日は来たんです」
「何でしょう?」
「その…僕、貴方との子供を身籠ってしまって…」
「え!?」
恋一郎は目を剥いた。信じれないって具合である。
「三か月なんです…」
イズミは徐に母子手帳を取り出した。
「え…!!」
恋一郎は水戸黄門の印籠を見た人のような派手なリアクションは出来ずに固まっている。
「ああ…えっと、そんな顔しないで…認知して貰えなくても結構です。その…報告だけでもと思ったので」
「…その…」
恋一郎は目を泳がして口元を覆った。
「我儘でごめんなさい。でも、恋ちゃんとの子を生みたいから、僕、生みます!じゃ、じゃあ!!」
泣き出すのを何とか堪えてイズミは立ち上がった。
消えてしまいたい。
「あ!イズミちゃん!?待って!!」
「失礼します!」
恋一郎の声が聞こえたが、立ち止まったら、優しい恋一郎に甘えてしまいそうだ。
彼は仕事中なのだ。
これ以上、邪魔してはならない。
靴を蹴飛ばして、髪留めのリボンをぐしゃぐしゃにしてイズミはマンションに舞い戻った。
ベッドに顔を埋めると、堰を切った如く涙が縷々と毀れる。
何て事だ。
優しい彼を困らせてばかりで情けない。
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