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第十三話 折り紙つきの白箱

 仄暗い収骨室(しゅうこつしつ)に足を踏み入れると、じわりと熱が伝わってくるのを感じた。顔にまとわりつく熱気と目の前に横たわる光景に衝撃を受けてうまく目が開かない。  視線を辿って、深く満ちた静寂に包まれた場所に裕の足が硬直する。そして、うなじの歯形に触れてしまう自分がいた。指先に乾いた窪みがざらついて、裕の視線がふわふわと浮遊する。  番が石灰色の骨へと化した。  人間に骨があるのはわかっている。骨膜に付着する腱や靱帯、筋肉、そして皮膚があるのも頭では分かっている。だが、形骸だけの死骨となったものが台に横たわっているのを直視して唖然とする。  ほんとうに、逝ったのか。雅也。  颯爽としてかっこよく、高貴で端正で匂うように美しかった雅也。雅也の骨は太く、長い大腿骨がまっすぐに伸びてみえた。 「お骨上(こつあ)げをお願い致します。遺骨を二人一組にて骨壺までお運びください」  職員はちらりと背の高い太郎に視線を向け、手にしていた盆を差しだした。目を落とすと、不揃いの箸が二膳おかれている。  箸は一本が竹、もう一本が白木でできていた。お骨の箸渡しとは、一つの骨を二組の箸ではさんで運ぶと、「橋渡し(はしわたし)」という意味をもつ。親族らが心をこめて箸から箸に渡し、彼岸へ渡る手伝いをするのだ。ちらりと太郎に視線を流すと、かるく頷く。 「頼んでもいいか?」 「はい」  子供達を隅でみてもらい、太郎とともに雅也の骨を拾って骨壷にいれていく。  はじめに、生きているときと同じように足が下になるよう骨壺の底に足からつめる。それから、大きくてしっかりとした脛骨に腓骨。そして腰椎に肋骨、頚椎へと遺骨は足から腕・腰・背骨・肋骨・歯・頭蓋骨と下から上へと順番に拾い上げて骨壺に収めた。  頭蓋骨を収めたあと、最後に喪主である裕が喉仏を骨壺にいれた。喉仏は、その名が示すとおり仏様が座禅を組む姿に似ているからだ。そこで、骨上げの儀式が終わった。  裕は白箱を片手で抱えながら、章太郎の手をひいて待合室に続く細長い廊下を歩いた。太郎は無防備であどけない寝顔をしている千秋を肩に抱え、ほっと安堵したような顔を隣で浮かべていた。 「太郎くん、ありがとう」 「いえ、僕はなにも。それより、千秋ちゃん寝ちゃいましたね」 「ああ、疲れちゃったかもな。もう少ししたら帰れるから、受付でタクシーを呼んでくるよ。子供たちを部屋まで連れて行ってくれるかな?」  章太郎の手を太郎に渡そうとして、ゆっくりと離した。 「わかりました。荷物も纏めておきますね」 「うん、ありがとう。助かるよ」  申し訳なさそうに微笑んで頭を下げると、太郎は千秋を抱っこしながら章太郎の手を引いていってしまう。  裕は振り向むいて受付へ足を運ぼうとすると、鮮やかに黒々とした和装姿が視界に飛び込んだ。 「あ……」  ……お義母さん。  東雲 雅子(しののめ まさこ)が険しい顔でつかつかと裕に向かって歩いてくる。挨拶をしなきゃ、お久しぶりです、いや……と言葉を考えていた途端、ぴしゃりとぶたれた。頬が掌のかたちに熱くなる。 「…………っ」 「……オメガの性は健在ね。もう新しいアルファを葬式に呼んでいるのかしら?」  冷ややかな声を放ち、雅子は目尻の皺をさらに深く刻む。東雲財閥の東雲 英二郎(しののめ えいじろう)の孫、東雲 雅子(しののめ まさこ)。祖父の英二郎は日本電通鉄道や、帝大ホテルの設立発起人であり、国家運営にも深くかかわりがある偉人だ。雅子の夫は婿養子で、全てを牛耳る雅子は世界経済を動かす女帝だった。 「そんな人はいません」 「あら、そうなの? いやらしい匂いがぷんぷん出てるわよ? 汚らわしいわね。そうやって雅也をたぶらかしたのかしら?」 「……そんな」 「まぁ、いいわ。雅也を返してちょうだい」  怒気をにじませたような低い声だった。長い廊下に震えるように響いて消える。喪服は凛とした光輝を放って雨に煙る睡蓮のように美しいが、雅子の顔は青ざめて生気を失っていた。 「あ……」 「はやく、返してちょうだい」  ぎろりと睨む雅子がいた。 「はやくはやくはやくはやくはやくはやく」 「あの、あの…」 「雅也を返しなさいいいいいいいいいいい」  裕はなにも言えず白い布で覆われた箱をもったまま目を見開いた。  息ができない。  裕はへなへなと膝をついて、骨壷を手に持ったまま雅子のまえに捧げた。  雅子は有無を言わさず奪う。  裕は指先を三角に揃え、床に手をついて頭を下げた。冷たい大理石の廊下が膝から伝わり、深々と陳謝の礼を表明する。瞳孔は開いたまま、まばたきすらしない。 「……申し訳、ございませんでした」  土下座。  一人息子を自分よりも早くに失くしてしまった親の気持ち。章太郎や千秋だったら……。夫とはちがう、親の心情は痛いほどわかった。ずっしりとした痛みが胸の中心を貫く。  謝っても許されない。  雅也に惚れなければ、こんなことにならなかった。雅也は用意されていた婚約者と結婚していればもっと幸せだった。恋に焦がれて浮かれていた。全部、自分が悪い。  裕の目からは涙がにじみ、背中の曲線美からは沈痛な謝罪が漂い、姿勢を崩そうとしない。 「まさや、まさや、まさや、まさや、まさやまさや、まさや、まさやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」  痺れるような威厳をなくし、雅子はか細い老いた腕で抱き締める。ぼとぼとと涙が落ちる音がきこえ、石のような重い痛みが胃の中に沈む。わかる。わかるからこそ、裕は胸が裂かれそうだった。 「……ッ」 「まさや、どうして、どうして、どうしてこんな。ううううううううう。まさや。ああ、かわいそうに、すぐにおうちに帰らせてあげる。ごめんなさい、ごめんなさいね」  雅子は火のつくような大きな声で泣き出しては肩を震わせた。何度も何度も箱にすりすりと濡れそぼった頬をこすりつけた。 「雅也さんの……」  消え入る声が裕の喉を通り抜ける。顔を上げて、章太郎と千秋の顔が浮かんだ。雅子には生まれたことも知らせていない。 「汚らわしいオメガ! お黙りなさい。雅也は渡しません。もう二度と私に顔を見せないでちょうだい。いいわね?」  そんな。孫だけでも……。いや、でも孫の存在を知ったら連れていかれる。  裕はさっと頭を下げた。耐えろ。耐えろ。耐えろ。耐えるんだ。あの二人をなくしたら、俺は生きていけない。  あれだけ辛いと思っていた生活。二人を失ったら、生きるのをやめる自分がいた。 「は、い……」 「いいこと? 二度と東雲家に関わらないでちょうだい。あのお金は手切金よ」  雅子はそう言い残して立ち去った。草履の音がずるずると耳の奥から消えていく。  裕は目を見開きながらも、一人冷たい廊下で懸命に頭を床にすりつけた。

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