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第十四話 千慮の一失

 雅也の火葬から数日経過した。 「章太郎、ちゃんと座って食べて」  ゆらりゆらりと目前で横揺れする章太郎に叱声が飛ぶ。何度も同じ言葉を言ってしまう自分に、ああ、嫌だなと反射的に思う。 「かんぱーい、ぱーい」  横では覚えたての乾杯を繰り返す千秋にグラスをぶつけながら、裕は白米をむしゃむしゃと噛んで口を動かす。 「ちゃんと」なんて、していない。その言葉が嫌いだったのに、子供に押し付けてしまう自分がいた。きちんとご飯食べて、きっちり服を着て、きちっと生きて……。これが全部、ちゃんとに変換してしまう。  豊かな語彙力で身ぶり手ぶりを交えて説明したいが、月並みの言葉すら思い浮かぶひまもなく、子供たちは屈託なくはしゃいで動き回る。  忌引きは明日で終わる。火葬後、どう帰ったのかは覚えていない。うつむいて膝をついたままの裕を太郎が慌てて起こし、タクシーで帰宅すると、佐々木夫婦が用意してくれた寿司を食べた。食事が終わり、礼を述べて海の底のような我が家に戻ると、元気な子供たちを風呂に入れて、絵本を交互に読んで寝かしつけをした。  そして麻酔がかかったように眠った。いままで夜もおちおち寝られないほどだったのに死のような深い眠りだった。  朝四時半に起きて、保育園の準備を整えて、朝食を用意し、慌ただしく家をでる。  そのあとは、雅也の会社へ事前に電話を入れ、挨拶をかねて訪問したい旨を伝えて電話を切る。そして葬儀屋へ葬儀費用の支払いを済ませた。  その翌日は菓子折りを幾つかと、支給されていた健康保険証、社章、念の為、印鑑を鞄に入れて雅也の勤務先を訪れた。誰にともなく頭を下げて生前の礼を伝え、私物を受け取る。帰りに人事部門にも顔を出し、死亡退職の手続きや説明事項を淡々と受けた。人事担当者は、あまり経験のない事例だったが丁寧に対応してくれ、どら焼きの箱を手渡してきた。  高層ビル本社でなんとなく、あの女を探してしまいそうになるが、出口まで見送りにきた上司の川村が百合子は休みをとっていると、余計なことまで口走るので適当に頷いて巨大なビルをあとにする。  雅也が亡くなって、悲しみに身を沈めているのだろうか。幸福な身の上が羨ましい、裕はそう思いながらも、空腹で疲労が重なった。  活気を帯びた雑踏の音が津波のように寄せ、急いで勤務地へ向かおうとする会社員とすれ違う。行き交う人々に揉まれながら、裕は寒空の下をよろめくような足取りで歩いた。  雅也の遺品を手にして、遺骨すらない家へと足を運ぶ。「いい青年だった」「亡くなるには早い」「気を落とさず」と励まされたが、愛想笑いを浮かべて受け流した。電車に乗ると疲れ切って崩れるように座り、裕の錯綜(さくそう)した思考は揺られながら掻き消されていった。  次の日も必要書類を記入したり、保険金を確認したり、ガス、水道、電気などの光熱費の支払い変更を各社に連絡して、書類に記入した。相続税の書類も目を通すと、あっという間にお迎えの時間がやってくる。  ……そうだ、税理士さんの紹介どうしようかな。  雅也の財形、定期など合わせて八百万ほど。そこまで気が遠くなるような金額ともいえず、うなるほどの大金でもない。けれども、保険金と不動産などをふくめると複雑に法が絡んで難しくてお手上げにだった。  ぼんやりとここ数日のことを思い返して、裕ははっとする。 「あ、千秋こぼしたな!」 「ちぃがこぼした!」 「あ、あ、こぼちた」  気づくと床に味噌汁がたれ落ちて、千秋の手がびちゃびちゃに汚れていた。慌てて干していた布巾を濡らして拭き取る。終わったら歯磨きをして、仕上げ磨き。さらにお風呂。着替え、寝かしつけ、そして朝がやってくる。  雅也がいなくても、回ってるんだよな。これが……。  ふぅとため息をこぼしながら、床を念入りに拭いているとチャイムが鳴り響いた。章太郎と千秋が目と目を見合わせる。 「たろう」 「タロ」  ……また、あいつか?  重い腰をあげてモニターを覗くと、やはり太郎だった。また何か容器を抱えて立っている。葬儀の翌日から毎日こうしてやってくる。 「はい」 「えっと、あの、今日もおかずをお裾分けしに来ました……」 「……ありがとう。ちょっと待ってね」  裕はモニターを切って、リビングに直結している玄関の扉をひらく。瞬間、太郎はぱっと顔に喜色を満面に浮かべるが、恥ずかしげに目を伏せる。 「これ、唐揚げとひじきの煮物です。たくさん作ったから食べてください」 「昨日もありがとう。澄江さんにもお礼を伝えておいてくれるかな。でもさ、……あの、気持ちは本当に嬉しいけど、毎日は悪いから気を遣わないで欲しいな」  じゃあ……と廊下の向こうにいる子供たちが気がかりで容器片手に閉めようとすると、太郎がドアを掴んだ。佐々木夫婦へは葬儀の翌日に、家族葬であることから香典などはやんわりと断り、会葬礼状(かいそうれいじょう)を添えてお礼の言葉と菓子折りをもって改めて挨拶している。 「あの、あの! 僕、手伝います!」 「は?」 「色々大変だろうし、その、えっと、話したいこともあって……」 「いらない」 「え?」 「俺一人でやれてるから、必要ない。同情してくれてるのはありがたいけど、大丈夫だから。帰りな」  裕はぴしゃりと太郎をはねつけた。  雅也には絶対にこんな言葉を投げかけない。あれから、土下座を見られたせいか、なにか話したそうな太郎を遠ざけるように避けてしまっていた。  なんとなく、雅也の上司や同僚のことが頭に浮かぶ。    番が死んだって。可哀想。どうやって生きてくの? 悲惨!    心ない言葉が裕の背中を刺していたが、振り返りもせずに立ち去った。 「同情じゃないです! ぼくは、あの、あの、あの、あの、えっと……」 「悪いけど、寒いから閉めるよ。気持ちだけありがたく受け取っておく。ありがとう。じゃあね」  パタン。  容赦なく裕は玄関の扉をとじた。夫が亡くなったといって、他の男をやすやすと招きたくない。前はおもむろに通したが、どうかしていた。 「おとーさん! ちぃが林檎とったああああああああああ」 「りん、ご、うま、うま」  奥で章太郎が最後に残していたデザートを取られたようで、号泣する声が響いて、裕の疲労がさらに増す。  いまは、だれにも頼りたくない。  しかし、その夜、裕は又してもしくじってしまう。

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