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第十五話 杳々たる香り

 やっと、子供たちが寝静まる。時間は午後九時。  リビング横の洋室で、クネクネと軟体動物のように移動する千秋に頭突きされながらも寝かしつけが完了する。奥にも寝室はあるが、幼い二人の寝相だとベッドから落ちてしまうので、裕と子供たちだけ布団を敷いて寝ている。今にも瞼が落ちそうになりながらも、裕は左右に身体をゆすって起き上がる。  雅也が帰ってくるの、この時間だったな。  帰ってくると、シャワーを浴びて、夕食をとって、裕が手早く片付ける。脱ぎ捨てた靴下、汗を拭いたタオル、背広の埃まで払い落として、ざっと家の中を綺麗にしておく。いまとなっては懐かしい記憶だ。  もう七日たつのか。  本棚に目を向けると、雅也の遺影と深紫色をした渦巻き線香が目にはいる。煙がふわふわとなびいて、穏やかな夕陽を想わせる香りがほのかに漂う。お香は四十九日まで絶えないよう、焚き続けなければならない。  裕は子供たちの寝顔に目を細めた。夢心地で眺めて、ほほえみを浮かべてしまう。可愛い。この寝顔で、鉛の板のような疲労をまぎらわす。  さて、起きて、食洗機、洗濯、残った書類も記入しないと……。  ふうと溜息をはいて、天井を見上げたその時だ。    コツコツ、コツコツ  あたりをはばかるような遠慮ぽいドアの叩き方のようなノック音がした。裕は反射的に立ち上がって、じっと身じろぎもせずに耳をそばたてる。宅配なら呼び鈴を鳴らすはずだ。固唾をのんで、息をひそめて不審な物音を聞く。    コツコツコツコツ。    ……雅也? いや、そんな、ばかな。    ぞわりと背筋が凍り、恐怖が悪寒のように体の奥を走りぬける。得体のしれない闇に包まれながらも、モニターボタンに近寄って押すと、ピッと機械音が音高く響いた。橙色の明かりが照らされ、見覚えのある顔にやれやれと安堵する。 「なんだ、あいつか」  裕は胸をなでおろしたように大きく息をついた。  太郎だった。玄関で追い返したのに、またやって来た。申し訳なさそうな顔で、棒をのんだように突っ立っていた。  玄関の明かりが灯り、扉をひらく。太郎は白い手のひらを丸めて佇んでいた。背後には夜の闇が深くなり、斜め横のアパートの灯りがちかちかと微光を放って、白い吐息が出る。 「あ、裕さん!」 「こんな遅くになにかな?」  嫌味で言っているのに硬い表情が徐々に和らいでいく太郎に、ほとんど怒りといってもいいほどの苛立ちがむくむくと湧く。外灯が凍てついたように寒々と光り、太郎は大きな身をかじかませる。 「あ、あの、あの、えっと……」 「寒いんだ。用件は?」 「ごめんなさい。どうしても、この箱を渡したくて」 「はこ?」  そんなものあったか? 容器は明日返すし、カネなんて借りてもいない。  太郎がぬっと手を差し出すと、そこには小さな空色の箱があった。裕は疑わしげな目を向けた。 「千秋ちゃんがいつの間にか、手にしていたのですけど、返せなくて……」  太郎はもじもじしながら、黒茶色の頭を所在なさげに掻いた。  おもむろに箱を手渡される。蓋を外して、裕は中身に視線を落とした。白い木片のようなものがちょこんと置かれているのが目に映る。 「カケラ?」 「火葬のとき、その、ご主人の……」  あっ……息を飲みこむ。義母の雅子にぶたれた熱が瞼のうらに浮かんだ。  雅也。雅也の骨。  残っていた。白い破片。 「まさやの……」 「すみません。ずっと、渡せなくて。きちんとした機会をうかがっていたんですが、中々渡せなくてごめんなさい」 「あり、がと……」  指先でつまむ。軽くて、折れそうだった。頭のなかが凍りついて、思考が停止する。 「僕はこれで。おやすみなさい」  太郎は頭を下げると踵を返して、帰ろうとした。家はすぐ隣だ。ふいに林檎の香りが鼻を打ち、裕の心に波が立つ。  ……あ、やばい。俺。 「へ?」  裕は太郎の服の袖をぐいっと掴む。 「まって。ちょっと、飲まないか?」  どうしてだろう。わけもわからず、裕の口から言葉が出てしまう。    深い夜が孤独を誘い込むのか、底のない闇の中に放り込まれた思いが次々と浮かび上がる。  

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