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第十六話 さても寒心はなはだに

 ちくしょう、家に入れちまった!  裕は玄関と扉をかたく閉じながら、舌打ちを鳴らす。 「わるい、念の為、抑制剤打っとく」  太郎を先にリビングに通して、裕はぽつんと廊下で立ち止まった。ばくばくと胸の高鳴りを抑えながらも、通路の左横にある収納棚を開いて、背より高い場所からポーチを手に取った。  全身の血が逆流していくかのような不自然な高揚感に顔を顰め、すぐに針を装着して準備をする。発情期は終わったはずだ。だが万一の場合を覚悟して、裕は急いで横腹をつまんで液体を注入した。  カチカチカチ…。  打ち終わるとまたポーチを元の場所へ戻し、リビングに足を運ぶと、太郎がつつましく立っていた。 「僕はすでに薬を打ってますから、安心してください」 「え? なんで?」 「……もしもの時に備えているので」 「ふーん、ありがとう。あとごめん、汚いんだ。これから片付けようと思っててさ」 「大丈夫です。あ、お子さんたち、寝てますね」  キッチンライトの明かりが斜めに射すなか、太郎は隣で寝ている二人を眺めると口元が緩やかに微笑んだ。裕はその様子をちらちら横目で見ながら、冷蔵庫を開けるとひんやりと冷気が頬をかすめた。 「ここ、座れよ」  以前と同じ場所へ太郎を座らせて、裕はビール缶を手渡す。子供たちはリビング横にある引き戸で遮らせ、視界が狭くなる。裕は向かいに座って、缶を開けて乾杯もせずにごくりと一口飲む。どくどくと脈が耳の中で響いて、誤魔化すように酒臭い息を大きく吐いた。 「ありがとうございます。夜分にお邪魔しちゃって、こちらこそごめんなさい」 「こっちこそ、引き留めて悪いな。ちょっと飲みたくなってさ」 「全然! 嬉しいです」  太郎は無邪気に笑って、ビールを一口飲んだ。同じものを飲んでいるのに、裕のものは酸が増した胃液のように苦い。  本当は家に招くつもりなどなかった。サシで飲むつもりもない。ただ、あの香りを嗅ぐと冷静な判断ができない自分がいた。林檎のような甘い滔々とした果実の匂い。裕は鈍る頭を振って、話題を太郎にふろうとした。が、太郎が遮った。 「あのさ……」 「体調とか大丈夫ですか? あと、遺産の整理は進みそうですか? あの、税理士の紹介どうします? あとデジタル遺品とか大丈夫ですか?」  デジタル遺品?  怒涛の質問責めのなか、その言葉に裕の視線が太郎に吸いつけられるようにピタッと止まる。聞きなれない言葉だった。 「なにそれ?」 「ネットバンクの口座やプロバイダなどの解約ってされました。あと定額払いのサブスクとか……」 「サブスク、ネットバンク……」  確か、雅也がランチの定額制サービスを始めたと言っていた気がする。それに音楽配信、株、投資信託もやっていた気がする。光熱費だけがクレジットカードの決済に紐づいていたと思い込んでいた。他の契約についてなんて、すっかり忘れていた。  裕は金魚のように口をぱくぱくしながら、雅也の携帯を探そうとあたりを見回した。たしか携帯は遺影のそばにある。 「ああ、落ち着いてください。相続人が裕さんだけなら、ご主人の携帯を解除できるはずです。だから慌てなくても大丈夫ですよ」 「だって、ロックがある。それに、LINELINE(リンリン)ペイとかもやってた」  開こうとしても、雅也の携帯は厳重なロックがかかっている。そして解除したとしても、百合子との生々しいやり取りが動画や写真となって残っているだけだ。突然の問いにうろたえる裕を太郎は優しく宥めた。 「大丈夫ですよ。業者に問い合わせたりすれば契約も解約できます。あ、そうだ! よかったら、知り合いの弁護士さんも紹介しますよ」 「弁護士?」 「親戚の叔父さんで、そういうのに慣れている人がいるんです。デジタル遺品は悪徳業者も多いので、よく多額の請求をされたりするんですよ。よく愚痴を聞かされるんですが、弁護士として評判もよいので親身に相談にのってくれると思います」  太郎の言葉に五十代くらいの人物を想像した。急に安心感が裕の胸に芽生え、冷えた缶にじわりと水滴がこびりついて裕の指先を濡らす。 「でも、そんなに世話になれない」 「紹介するだけですよ。向こうは仕事ですし、気にしないでください。困っている人の為に働くんですから」 「いや、それでも、なんだか悪い」  葬儀まで付き合わせて、太郎にはおんぶに抱っこだ。このまま頼ってばかりだと、いつか離れられなくなってしまう。  やんわりと断わりの言葉を重ねる裕に、太郎はにこにこと爽やかに笑いかける。 「……うーん、じゃあ、夕食を一緒に取ってもいいですか?」 「は?」 「えっと、その、祖父の療養で湯治場に二ヶ月ほど旅行に行くみたいなんです。なので、一人も寂しいですし、ご飯も僕がつくりますし、ね? だめですか?」 「はあああああああああ?」  裕は変な声をあげてしまい、おもわず身を乗り出した太郎の手で口を塞がれる。そういえば、澄江(すみえ)は夫の秀和(ひでかず)が階段から滑り落ちたと漏らしていたのを思い出すが、いくらなんでも性急すぎる。 「起きちゃいますよ、ね?」 「やめろ! 触れるな!」  また林檎の香りが鼻につく。だめだ。こいつから甘い匂いがするたびに変な気分になる。  唇から太郎の手を振り払うが、早鐘のように裕の鼓動が打ち始める。 「ご、ごめんなさい」 「なんなんだよ、いちいち触るな」  大きな声をあげそうになって、はっとして、声を落とす。太郎は乗り出した身体を戻して、元の位置に座り直した。ごちゃごちゃになったレシートと米粒が目に入った。 「だって、裕さん見ていて心配なんですもん」 「余計なお世話だ」 「誰にも頼らないで、一人でこなすのはわかります。でも頼ってください。僕、なんでもします。だって、僕たち運命の番なんですよ?」 『はあああああああああああああああ?』  のどの奥で、でかかった声をのみこんで、裕は大きく口を開けた。  運命の番? 「きめぇ」  子供が寝ているせいか、つい言葉遣いが悪くなってしまう。  まて、落ち着け。太郎は大事な佐々木夫婦の孫だ。  顔をあげると、太郎は涙を流していた。嗚咽ださずに、頬を濡らしていた。  おい……? ちょっと? 「やっぱり、運命の番ってわかりませんか? 僕はわかりますよ? だって、一目見た時から、好きで、好きで、すきで、あ、いけない。えっと、まずは良かったら、ご主人のことを教えてください。たくさん喋って、思いのはけを僕にぶつけてください」  ……こわいな。宗教か?  運命の番が同じ街にいるわけない。裕は答えに窮して、後ずさりするように椅子から立ち上がってしまう。  不意に虫歯のようにズキンズキンと、身体が反応する。  太郎は真剣な顔で、椅子から腰をあげてじりじりと近づいてくる。馬鹿な。こんな年下の会ったばかりの奴に、そんな心を許すわけない。訳ないけど……。  焦げ茶色のフローリングが、裕の足元でぱたぱたと濡れた。林檎の甘い香りが充満する。あ、だめだ。 裕の緊張の糸がふつりと切れた。 「え? やばい。な、んで?」  胸の奥から迫り上がるなにか。そして身動きできず、声をなくして涙を流す自分がいた。 「よかった。泣いている」 「は?」 「運命の番は互いの感情をリンクできるんです。本当に泣いてくれるなんて、嬉しい。裕さん、たくさん話して、涙を流してください」  そんな馬鹿な話あるかよ。超能力者かよ。 「嘘だろ? おまえ、泣かせて楽しいか?」 「母が亡くなったとき、祖母にそう言われてたくさん泣きましたから」  澄江の柔和な笑みがうかぶ。あの人ならそう言うだろう。  いやだ。こんなのだめだ。でも、どうしてか心が落ち着いてしまう。でも駄目だ。俺は甘えたくない。そして太郎の息遣いが生々しい。  怖い怖いこわい怖いこわい。 「太郎、やめろ」 「いやです。裕さんは泣いたほうがいい」 「ほっといてくれ……」  太郎は静止もきかずに近寄ると、ぎゅっと裕を抱き締めた。糖蜜のような甘い匂いが、腕の中でぶわりと充満する。 「すみません、なにもしないから」 「したら、殺す」 「はい」  ……あ、こいつ勃ってる。  怖い、こいつ。  でも心地良い。  裕は抱きしめられながら、剛直した股間に当たらないよう少しだけ腰を引いた。そして、本能的に涙をとめどなく流して、頬が濡れそぼるほど泣いた。

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