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第二十三話 黒雲と片恋

 繁多な業務に忙殺しながら、太郎は平常心で業務を遂行する。新年度に向けて、環境が変わる季節。それにあわせて、子供への支援の準備や訪問調査があり、様々な手続きが年度末に集中する。どうにもならない雑用雑事が次々と押し寄せるが、それでも太郎は意欲的に取り組んで、書類を作成していた。  ……裕さん、大丈夫かな。  野田 百合子(のだ ゆりこ)。以前、母子手帳を受け取りにきた女性だった。か細い声で呟いて、華奢な指先でお腹をさする可憐な女。懸命に生活しようとする姿を裕と重ねてしまい、懇切丁寧に案内手続きを行った。  まさか、同一人物なんて……。  見覚えのある名前と住所にぴんときた。妊娠のことを伝えると、裕は内容証明書を握りしめて下唇をきつく噛んでいた。やっと遺産整理に目処がつきそうなのに、また暗礁に乗り上げる。  机の上の書類を片付けて、立ち上がって深いため息を洩らしていると、窓口から聞きなれた声を耳にする。 「よ、太郎! ちゃんと働いてるか?」 「裕さん!?」  驚きながら振り向くと、裕が笑いながら顔を覗かせていた。顔をみた途端に鉛のように重い疲労がなくなり、太郎は無邪気に頬を輝かせて飛び跳ねたい気分になった。 「一階で戸籍謄本とか、印鑑証明を取りに来たんだ。で、おまえの顔を見にきた。真面目に働いてて安心したよ。あと、朝のお願いを念を押しにな」 「お迎えですね! 大丈夫です!」  茶封筒のことなど気にした様子もなく、裕は表情を崩す。これから税理士や森の事務所へ赴いて、相続の相談をするのだ。有給を取るのも大変なのに、裕は何事もなかったように笑みを浮かべている。 「助かるよ。色々と歩き回るから、時間がかかりそうなんだ。悪いけど、子供達をよろしく頼むな。終わったら連絡する」 「は、はい」 「それと、また変なこと考えて、無視すんなよ! 森さんはないからな。あほ」 「え、あ……はい」  ぼうとして突っ立てると、裕が軽く太郎を指で(はじ)いた。逞しい。どうしてこの人は優しくて強いんだろう。好きだ。スキ。やっぱり好きだ。愛している。森に嫉妬したが、奪われたくない。ちなみに下着に手を出すのは我慢したが、捨てようとした裕のタオルをこっそりとポケットに忍ばせて、餓えた欲望を(しの)いでいる始末だ。 「おまえも頑張って仕事しろよ。あ、まずいな、抑制剤が錠剤一つしか持ってないや。まぁ、いいか」  裕はしまったと呟いて、片眉をあげる。  錠剤は服用して吸収されると、肝臓を通過して血液中に入り、効果が発揮するまで三十分ほどかかる。続けて飲み足しても十分な効果は得ることは難しい。服用時間と量を適切に守って、発情期(ヒート)が突破的にでる裕に大量の薬を注入しないように裕に伝えている。  困惑の色を浮かべる裕の手を引き留め、太郎は慌ててデスクの引き出しをあけると、棒状の薬を取り出した。 「これ、ペンシル型の抑制剤です。使ってください。即効性があるので、念のためです」 「馬鹿。俺なんか襲う奴なんていないよ。でも、ま、貰っとく。ありがとう。じゃ、またな」  裕は受け取ると、書類で分厚くなった手提げに入れた。そして笑って手を振り、人混みに紛れてあっという間に姿を消す。  前よりは警戒を解いてくれ、話しやすくなった。ずっとこのままでいいような、物足りないような、なんとも言えない気分だけが太郎の胸に沈む。  あ、傘持ったかな。裕さん。  ガラス窓に視線を泳がすと、いまにも降りだしそうな厚ぼったい雨雲が空を覆っていた。なぜか、嫌な予感が胸にこみ上げてくる。  はやく帰ってきて、裕さん。  太郎はなんとなく、そう願った。

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