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第二十四話 そぼ濡れる淫雨

「しごにんち?」  裕はおもわず素っ頓狂(すっとんきょう)な声をあげる。  手紙は百合子からのDNA鑑定依頼だった。絡めて相続人として遺産分割会議を開きたいという申し出と案内がかかれていた。 「そう、死後認知」  事務所の談話室で、森は向かい側に腰掛けて、柔らかく微笑む。濃紺色のスーツをシンプルだが華やかに着込んで、分厚い胸板の上には金バッジが光っていた。しゅっと長い腕をだして、今日も堅実ながら完璧な装いをしている。 「胎児でも認知できるんですか?」 「できるよ。胎児でも認知できるけど、父親が死亡の場合、死亡してから三年間、死後認知という手続きで認知してもらうことができる。ちなみに、認知された胎児は父親の相続権を持つようになるんだ」 「そうぞくけん……」 「不貞の子に対して、死後認知に関する証拠を求められたら遺族は驚く。大抵は拒否するか、慰謝料請求を行うかな」 「慰謝料ですか……。でも証拠なんて」  急に言われても理解が追いつかない裕は頭を抱えそうになる。森は一口だけ茶を飲んで、さらに話し続けた。 「前に画家の死体を掘り起こして、DNA鑑定したニュースがあったけど、日本の場合は火葬だからね。骨なんて熱で遺伝子は死滅してるし、毛根がついていない毛髪の場合、父子鑑定に利用される細胞がとれずに鑑定ができない。かといって、DNA鑑定がなくとも認知が認められる場合もある。認知は裁判所が行うんだけど、証拠を家族から入手することから困難でね。状況を聞き取って判断するんだ。東雲くん、きみはどうする?」  長い脚を組みながら、森は穏やかな口調でゆっくりと落ち着いて話す。どうすると言われても、先週雅也の遺品はほぼ整理して捨てた。今頃ゴミ焼却場で燃えかすになっている。 「証拠は何があるんですか?」 「毛髪、唾液、血液、……あと臍の緒かな」 「へその緒ですか?」 「そう、血液の凝固した部分で行うんだ。保管具合にもよるけど、ご主人のある?」  あった。たしか、遺産整理のときに佐々木が見つけた。裕は目を見開いて、顔を見上げる。 「あります」 「なら、いい専門機関を紹介するよ。提出するかどうかは君次第だ。ちゃんと考えた方がいい。きみのお子さんたちにも関係してくる。相続権は胎児の代わりに母親が代理人になって、子供に請求するんだ」 「どういうことです?」  子供ときいて、裕は身を乗り出してしまう。章太郎と千秋を思い浮かべ、顔に心配そうな影がさす。 「相続人に配偶者と子がいる場合は、配偶者が二分の一、子供たちが二分の一相続することになるよね。そうすると、死後認知によって子供が増えたとしても、配偶者の相続割合が変わることは無いんだ。配偶者を被告として裁判に巻き込む必要はないという裁判所の判示がある」  つまり、二億円について当てはめると、裕が一億、残り一億を章太郎と千秋、非嫡出子(不貞の子)の三人で同等の相続分にて分割していく。 「申し出を拒否したらどうなるんです?」 「手持ちの証拠と母親の証人尋問などで立証して、あとは裁判所の判断を待つしかないね」  ……どっちにしてもだめじゃないか。  裕は手のひらをぎゅっと握り締め、底なしの空間へ落ち込んでいく。冷えた緑茶が目の前でうなだれている自分を映した。 「東雲くん、気を落とさないで。まずは、この不倫相手の素性をよく調べてみよう。いい知り合いがいるんだ。この問題が済めば全部おわる。『真の幸福に至れるのであれば、それまでの悲しみは、エピソードに過ぎない』ていうしね。宮沢賢治の言葉だよ。あともうひと踏ん張りだ」  あと、もうひと踏ん張り、か。  確かに初めにここを訪れたときよりは、着々と進んで税理士への提出物も終わり、デジタル遺品についてもほぼ解約ができた。立ち往生することもなく、こつこつと前進してここまでやってきた。  くそ! あの浮気クズ野郎!  ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、じっとお茶に写り込んだ自分を見返す。うなじの歯形がぼんやりと見えた。 「相続が解決したら、全部終わりますか?」 「終わるよ。きっと、心も軽くなってすっきりするはずだ。僕もきみに請求書を渡せるしね」 「森さん」  にこっと笑みを浮かべる森に、裕は肩の力が抜ける。 「前より顔色もよくなったんだ、一緒に頑張っていこう。こう見えても昔は敏腕弁護士だったんだ」 「はは、そうですか。なんとなく、想像できますよ。では、一度帰ってから、よく考えて連絡します。今日はありがとうございました」  裕は静かに頭をさげて礼を言う。帰ろうとすると、轟轟(ごうごう)と滝のようにはげしく降る雨音に顔を上げた。遠くで光ったのか地鳴りのような雷雨に、どんと轟然(ごうぜん)たる雷鳴が鳴り響いた。 「うわ! ひどいな。警報が発令されてるよ。電車大丈夫?」 「……だめですね。いいや、どこかで時間潰して帰ります」  携帯を手にすると、人身事故で沿線がとまっていた。見通しは立たなそうだ。  太郎たち、そろそろ夕飯か。 「駅まで歩くだろうし、送るよ。僕は車で来ているんだ」 「いや、いいです。結構遠いですし、雨の中、運転してもらうのは気がひけます」 「気にしなくていいよ。僕もそのまま帰るから。娘のお迎えは祖父にお願いしてるしね。さ、行こうか」  森はファイルを畳むと横に寄せて、すっと立ち上がる。二人で談話室をでて、森はそばにあった革の鞄を持つと事務所の明かりを消して施錠した。事務所から出ると、ひんやりとした冷気が頬をさす。それから、近くのパーキングまでのんびり歩いてビルと出ようしたが、森がぴたりとビルの出入口で立ち止まる。 「しまった。傘を忘れた」 「いいですよ、このまま走りましょう」 「悪いね。急ごう」  玄関を飛び出して、びしょびしょに濡れながら駆けだす森のあとを裕はついていく。雨足はやむことなく、土砂降りのなか裕たちは走った。  森さんの性格、太郎に似てるな。心をなでるような温和なところに好感が持てる。  太郎から抑制剤よりも傘をもらえばよかったな。  裕は頬を緩めて、泥水を踏んで濡れた靴をみた。番が成立したオメガ。番であるアルファにしか発情(ヒート)しない。だが、アルファの体液を摂取しないとホルモンバランスが乱れて不安定になる。フェロモンが漏れだして、新たなアルファを呼びよせてしまう、それを太郎は心配している。  馬鹿だよな。あいつ以外、俺に興奮する奴なんていないのに。考えすぎなんだよ。

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