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第二十五話 めくるめくるの忍び音

「この車だよ。さ、乗って」 「はい」  パーキングに駐車していたのは黒のSUVの大きなボディに車高が高い、これからキャンプでも行けそうな車だった。森は鍵を解除してドアロックを外す。  車で三十分だな。すぐつく。  裕は助手席に乗り込むと、なかは広く後頭部にジュニアシートが一つだけ見えた。 「普段は電車で移動なんだけど、通勤だけこっちを使っているんだ。子供がいるとどうしても大きい車になっちゃってね。……しかしすごい濡れたね。大丈夫?」 「大丈夫です。ハンカチでふいて……」  凍てつくような氷雨に叩かれて、指先に寒冷の気が染みとおる。震えながら手提げをたぐいよせると、森が慌てて座席からなにかを探し出した。 「確かタオルがあった気がするんだ。……うんと、まってて、あった、これだ」  渡されたタオルからは柔らかな感触と麝香(じゃこう)の甘美な香りがした。裕は髪の毛を拭いて、視線を落とすとオレンジ色でカラフルな布地だった。 「柄が白ハムなんですね。ふは、森さん、ギャップがすごい」 「え? ああ! やだな。恥ずかしいな」  森は頬を赤めて、シートベルトをすると恥ずかしそうに笑って前を向いた。エンジン音の振動が体に伝わり、裕はシートにもたれて座る。 「寒くない? 暖房を少しつよくするね」 「ありがとうございます」  和やかな雰囲気のなか、車を発進させる。打ちつける雨音が響いて、左手に曲がろうとして、チッチッとウィンカーが耳を打った。  ……太郎に連絡するか。  裕は携帯を取り出して、太郎に帰ることを送信するとすぐに『大丈夫ですよ! これから歯磨きです!』と写真つきですぐに返信がきたので、笑みがこぼれた。 「太郎くん?」 「そうです。終わったら、連絡する約束をしてて」 「うまくいってるの?」 「え?」 「太郎くん、君のことばかり話してるからさ。進展があったのかなって」  森はニコニコとした顔でハンドルをきる。すれ違う車が水飛沫をあげて、スピードを上げて走り去っていく。大粒の雨がフロントガラスを叩いて、前方に車の尾灯がみえた。  進展はない。あれから、少し酒を飲み交わして、互いの家で別々に寝た。太郎のそばにいると落ち着く。慌ただしく家に帰っても、太郎が笑顔で待っていてくれる。それだけで嬉しいと思う自分がいた。 「上手くいってます。あの、前に話していたやばい甥っ子、太郎ですよね?」 「あ、バレちゃった? 怒った?」 「あきれましたよ。ありえないのに、貴方にまで嫉妬してた」 「僕に? まぁおじさんは圏外だよね。残念だな」 「圏外というか、森さんは奥さんを愛してるから絶対にないと強く言い聞かせました」  灰鼠色の空がいつの間にか黒く闇色に沈んでいた。雨は激しくなる一方で、通りは行き交う車で込みあっていた。  柔らかな音色がラジオから流れ、二人とも無言で信号が点滅するのを眺める。すると、森がぽつりと呟いた。 「愛してる、か。……娘が生まれた夜もこんな雨だったな」 「……娘さんですか?」 「そう。雨になると思い出すんだ」 「雨に出産なんて、大変でしたね」 「そうだね、とても大変だったと思う。駆けつけられなくてさ、後悔しているよ」 「後悔?」 「予定日だったんだけど、仕事でどうしてもぬけられなくてね。気づいたら、病院から何度も電話があった」 「……電話」  ざわざわと嫌なことを想像してしまう。窓に視線を向けると、街灯で銀色に光り輝く雨がみえた。 「出血多量でショック死。娘はなんとか無事で、一週間は病院で新生児をみてくれて、火葬や墓に色々と大変だったな。当たり前だと思ったら、ちがうんだね。オメガでも身体は強くない。出産は命がけだって、忘れてた」 「……」 「それで、大手の事務所を辞めて、こっちで親の跡を継ぐことにしたんだ。流石に応えたよ。火葬なんて、本当に辛かった。小さな壺がなくて良かったとすら思った。それでも、はやく駆けつけたらって、何度も後悔した」 「でも仕事だから……」 「仕事でも連絡を取ればよかったんだ。だからかな。君のようなオメガをみるとほっとけなくなるんだ」  高速に乗ったのか、ヘッドライトが華やかな光の模様を描きながら走り抜けていく。 「同情ですか?」 「……はは、ちょっと」 「俺もいま、森さんに同情してます」 「そうか、ありがとう」 「葬式の大変さとつらさはわかりますから」  出産で亡くなった妻と不倫して交通事故で亡くなった夫。へんな組み合わせがここに成立している。同じように火葬を終えて、骨壷に骨をいれて、弔った。 「離別はつらいね。でも、幸せになりたいと願うのは大切なことだ。きみが遠慮することはないよ」  森が顔も合わせず笑うと、また沈黙が落ちる。左右に移動するワイパーの音と雨音だけが耳の奥に響いた。しばらくして、見覚えのある建物がみえ、そろそろ到着するのがわかった。 「森さん、ここから一方通行なので、あの端っこで下ろして下さい。そこなら車もこないし、大丈夫です」 「そう? じゃあここで停めるね。あ、傘ぐらい持っていきなよ」 「いいです。すぐそこなので」 「だめだめ。大事なクライアントに風邪引かせたって太郎くんに僕が怒られる。ええと、たしか、このへんに……」  森は路肩に寄せて車を止めると、後部座席をまさぐる。場所は土手裏になっており、滅多に人も車も通らない。森はシートベルトを外して、ゴソゴソと傘を探した。甘く深い香りが揺れ動いて、びりびりと裕の体が震えた。 「……あの。ちょっとぐらい濡れてもだいじょ……」 「あ、あった! これだ!」  視線がかち合う。森が目の前にいた。瞬間、林檎の香りがたちこめて、ぶわりと身体が熱くなった。森の体温が伝わり、瞳の奥で熱が燃え上がる。呼吸がとまった。 「……ッ」  射るような目でみつめられ、膝上に重みを感じた。そして、噛みつくように激しく裕の唇を奪う。 「……ッ、ごめん、止められない」

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