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 ライトアップされた水槽から薄暗い通路に蒼が零れ、辺りを海の中に沈めたような色に染めている。  平日昼間、混雑とは程遠い水族館にぼく達は居た。 「改まって言うから何かと思ってたのに……行きたかった場所って、ここ?」 「ああ。だってお前……水族館、好きだろ?」 「なにそれ。どこ情報?」 「んー……強いて言うなら、そのカバンに付いてるハリセンボンだな」  言われてぼくは、咄嗟にバッグのファスナーにぶら下がるハリセンボンのマスコットを手で覆う。 「懐かしいな。それ、俺が中学ん時の修学旅行の土産に買ってきたやつだよな」  誤魔化しようもないくらいに年季が入っているそれを前に、さすがに否定の言葉は紡げなかった。だから代わりに、少しの憎まれ口を叩いて溜飲を下げようと試みる。 「よく覚えてるよね……てか普通さ、こういう時のお土産って、イルカとかペンギンとか、もっとスタンダードな物をチョイスするものじゃない? なんでハリセンボンなの……」 「そうやってすぐ俺に対してツンツンするとこ、そっくりだろ? お前に。だからハリセンボン」 「なっ……!」  心底愛おしいものでも見るみたいな眼差しを寄越しながら、ソウくんがぼくの髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。  これでは、まるで仲睦まじい恋人同士のやり取りだ。人目を理由にその手を振り払えたなら良かったが、生憎とぼく達が居る水槽の周りには誰も居ない。  ふたり切り取られた世界の中、ネオンブルーの水中をゆらゆら漂うクラゲだけがすべて。ソウくんの青混じりの虹彩が、水槽のガラス越しに届く明かりを受けて眩惑的に揺れる。……だから、仕方なかったのだ。 「……ソウくんは、どうしてそんなに、ぼくのことが好きなの?」  口にするつもりは無かった疑念を、声に変えてしまったのは。 「……あれは、まだ俺が中二の時だったか」  少しの間を置いて、ソウくんが話し始めた。 「あの頃は、周りとの関わりが、全部苦痛で仕方なかったな。俺と付き合えればステータスになると思って寄って来る女子とか、そのせいで向けられる男からの嫉妬の目とか……」  彼の静かな声よりも、水槽の中に浮かぶ泡が立てるこぽこぽという音の方が大きいくらいだ。なのに、ぼくの耳は彼の発する言葉を端々までしっかり拾った。 「親は「坂月の跡取り」としての能力や振る舞いを期待してくるし、周りの大人達は、俺にいい顔してれば恩恵が得られると思ってる。……俺が、ただの「俺」で居て良い場所が無かったんだよな」  ソウくんが水槽へと視線を向けるのに合わせて、ぼくも同じ方向を向いた。  半透明のクラゲがひらひら、ゆらゆら。つい、触れたくなって伸ばそうとした手は、ソウくんに握られて動きを止めた。……手を、繋がれている。 「……けど、お前だけは、なんのフィルターも通さないで俺を見てくれてた。覚えてるか? 「ソウくんのことなんかが羨ましいなんて、変なの」って、言ってたこと」  覚えている。あの頃はまだ、母親と当時の交際相手の仲も良好で、裕福でこそないが、今ほど破綻した生活ではなかった。 「(……それに、まだを始める前だった)」  ぼくが小さく頷くのを見ると、ソウくんは話を続ける。 「俺はさ、それがすごく、嬉しかったんだよなあ」 「……君みたいになりたくない、って言ってるのと同じなのに? 悪口じゃん」 「それでも、だよ。あの時の俺は、自分が思う俺の姿と、他人がイメージする俺の姿とに乖離があって不安だったんだ。コイツらには何が見えてるんだろう、ってな」  繋がれたソウくんの硬い指先が、ぼくの掌の真ん中を撫でる。親愛と呼ぶには不埒で、劣情と呼ぶには純粋すぎる。そんな、指の、動き。なんだか、上手く息ができない。 「何もかも嫌んなって、塾とか全部サボって公園でボーッとしてたらお前に会ったんだよな……」  それも、覚えてる。公園のブランコがあんなに似合わない中学生なんて、ソウくんくらいのものだろう。  今でも、考えは変わっていない。たとえ、自分がどんなに恵まれていなくても。  泥濘(ぬかるみ)に足を取られて藻掻く自分とはまた違った息苦しさを、彼が抱えていることを知っているから。 「誰もが欲しがるものや、羨む環境が与えられていたって、それが本人の望むものじゃないなら、そこに価値は無いでしょ?」  青を溶かした瞳は、いつの間にかこちらを向いていた。まっすぐに突き刺さる眼差しに、ぼくは縫い止められて動けなくなる。からからに渇いた喉で、それでも言葉の先を紡いだ。 「……可哀想だよ、ソウくんは」  沈黙はそう長くは続かなかったと思う。  ぼくらの立つ通路の後ろから、ちょうど曲がり角で姿は見えないまでも、楽しげに話す複数の女性の声が聞こえてきた。  それをきっかけに、ぼくは繋がれたままだった手をほどこうと腕を上げる。けれど、それよりもソウくんが動く方が早かった。  グッと腕を引かれて、状況を理解する前に唇へと重なる感触。少しだけかさついた熱が、押し当てられたと思った次の瞬間には遠ざかる。 「……お前が好きだよ、緋色。お前だけが、俺を「本物」にするんだ」  キスをされたのだ、と気づいたぼくが抗議の声を上げるより先に、この場に近づいていた女性達が現れる。言葉を飲み込まざるを得なくなったぼくは、ばつの悪そうな表情を浮かべながらも順路に沿って進み始めたソウくんについて行くしかなくなった。  そんな顔するくらいなら、どうしてぼくにキスなんてしたの。

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