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8.初恋
翌日、午後三時を回った頃。
リオの住む屋敷に住み込みで働いている従者や使用人の寝室がある西の棟は、その時間は日中の労務で人影がない。遅い午後の日差しが窓から静かに照らすその廊下を、リオはひそやかに歩いていた。
西の棟に来ることは滅多にない。リオの自室がある本邸とは違い、どの部屋の扉も木造で壁も薄い。プライベートなどあってないようなものだ。
その中のひとつを、グレンの部屋として与えている。
彼の部屋の前で立ち止まった。中から物音は聞こえない。ノックをしようかと拳を握って、奴隷相手に気を遣う事もないのかと思い直し、作った拳を開いた手でそのままドアノブを回した。
ぎぃ、と軋んだ音を立てて開いた扉の中にグレンの姿はなかった。部屋には天井から吊られた灯りがひとつと、壁に沿って置かれた細長い書斎机に椅子、ひと一人分挟んだ右側にシングルサイズのベッドがあった。ただでさえ狭い部屋を圧迫しているが、幸い窓が大きいから息苦しさはそこまで酷くはない。窓の隙間から入り込む風が、白くて薄いカーテンをふわりと靡かせていた。
「なんだ、居ないのか⋯⋯」
ほっとしたような、少しがっかりしたような気持ちになって、誰も居ない彼の部屋へ足を踏み入れた。
ベッドの枕元には、一冊の本が無造作に放り投げられている。まだ読み始めたばかりなのか、表紙から数十ページのあたりに挟まれた栞が少しだけ見えている。
毎日こんなに狭い部屋で寝泊まりしているのか、と腰を屈めてシーツの皺をなぞる。ふわ、と風が吹いて、汗の染み付いたシーツからグレンの匂いが鼻腔を掠めた。
途端に、数日前の光景がフラッシュバックする。決して誰にも言えない、あの恥ずかしい情事を。
この身に覆い被さった彼の体の重みも、瞳孔がきゅうっと丸くなった動きも、顔にかかった黒髪の匂いも、合わさった唇の塩辛さも、何もかもが鮮明に脳に蘇る。
その時に感じていた、胸の奥底に泥のように落ちていく感情の塊も。
あれが一体何なのかは、いまだにわからない。
胸が苦しい。彼の残り香だけで立っていられなくなりそうで、どうしようもなく口惜しい。
「これが、恋だって言いたいのか⋯⋯?」
ぽつりと呟く。グレンの事を思い出すだけで早鐘を打つ心臓を抑えて、リオはよろよろと部屋を後にした。
自室に戻ると、扉の前に茶色い小さな紙袋が置かれていた。
使用人がリオに届け物をする際はワゴンを使う。それじゃあ誰がこんな物を、と拾い上げて中身を覗くと、手のひらサイズの小瓶が出てきた。
瓶に貼られたラベルには数種類の薬草の名が書かれていて、どうやらそれを調合したシロップのようだ。どれもこれも、風邪に効くとされている薬草の名ばかり。
風邪なんて引いていないのになぜこんなものが、と思索して、たった一人の該当者が頭に浮かぶ。
この風邪薬の差出人は、おそらくグレンだ。
あの嘘を信じて、せっかく与えてやった小遣いでこんな物を買いに街に出たのかと思うと、リオの胸はまたぎゅうっと苦しくなるのだった。
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