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9.街へ
翌日、午後三時。
リオは正装に身を包んだ姿で、グレンの部屋の前に立っていた。大きく深呼吸をして、なるべくいつも通りの平静を装い、コツンと扉をノックする。
ぎ、と開いた扉の向こうからは、六日ぶりの顔。
「出掛けるぞ」
「は⋯⋯? 風邪は治ったのか?」
驚いている彼に「お陰様で」とだけ返し、ぐいと腕を引っ張り薄暗い部屋から日向へと連れ出す。
頭の上にはてながたくさん並んでいるグレンを無視して、大きな玄関ホールを通り抜けていく。待っていた執事に連れられて、正門前の大庭に用意させた小型の馬車に乗り込んだ。
ふかふかのベロアのソファに腰を下ろして、窓から執事に合図を送るとゆっくりと馬車が動き出す。何か物言いたげなグレンに、リオはやっと口を開いた。
「テーラーへ行く」
「⋯⋯テーラー? なんでまた?」
「明日の夜、僕の屋敷で夜会がある。お前は僕の護衛として参列しろ」
「⋯⋯それで、服買ってくれるってか?」
カメラマンの次はボディガードか、とでも言いたそうな唇がわらう。六日前、リオの体を翻弄させた唇が。
グレンは、リオのことをどう思っているのだろう。
あの時、気を失うほどに体を振り乱したリオを見て、愚かな貴族だと蔑んだのだろうか。けれど、その汚れた体は彼の手によって綺麗に清められてベッドに静かに寝かされていた。
奴隷の使役といえば違和感はないかもしれないが、あくまでもグレンはカメラマンとして飼っているわけで、身の回りの世話をさせているわけではないから、あれはグレンが厚意でしたことになる。
あの日ぶりに顔を合わせるのに、その事について彼の方からは何も言って来ない。お礼を言うのも違う気がして、リオはふい、と目を逸らした。
狭いキャビンの中。二人しかいない空間で言葉を交わすこともなく、グレンは窓の外を向いてしまった。
沈黙が続けば、パカパカという馬の蹄の音だけが響く。
リオはこちらを向いてくれないグレンの後頭部を黙って見つめた。
晩餐舞踏会用の服を仕立てる為に街に出掛ける、というのは建前だ。本当は、グレンと話をしてみたかった。
彼を飼い始めて暫く経つが、リオの部屋に招いては撮影ばかりをしてろくな会話をした事がない。先日のアフタヌーンティーでセリーナとアンヌに言われた事を思い返す。
まずは、二人の間にある蟠りを取り払うこと。その為にも、相手の事を知ること。そんなような事を言われた気がする。
会話を繋ぐのは、リオは元々得意ではない。どちらかというと聞かれたことを答える方が多い。頭の中に浮かんでくるのは、「天気が良いね」とか「今朝は何を食べた?」とかそんなことばかりで、会話が広がるとは到底思えない。
頭を抱えそうになった時、記憶の片隅にアンヌの豊かな笑顔が浮かんだ。
「趣味のことを聞いてみるとか」彼女は確か、そう言っていた。己の趣味の事はグレンに話したが、そういえば彼の趣味については聞き入った事がない。
これだ! とリオの瞳が煌めく。
「⋯⋯お前は、どうしてカメラを始めた?」
「あ?」
リオからの問いかけに、グレンがくるりと振り向く。
「カメラを始めたきっかけだよ。逮捕される前の話、聞かせてくれよ」
やっと目が合って、少し嬉しくなったリオはここぞとばかりに言葉を織り成す。グレンは角張った指先で形の良い顎を撫でながら、何かを思い出すように目を閉じた。
「⋯⋯綺麗なものを」
「え?」
「目に映った綺麗なものを、手元に置いておきたかったんだ」
薄く開いた目には、過去を映す光が見えた。
「だから写真を撮るのが好きだった。カメラマンになって、多くの人に綺麗な景色を見せたいと思ってた。でも⋯⋯」
「でも?」
グレンの瞳が曇る。何かを思い出していくような表情からは、先ほどまでの光は鈍くなって。
「世の中に評価されるのは綺麗なものじゃない。他人の不幸やスキャンダル、モラルに反したものばかりが好まれる。そういうものを扱った記事が売れるし、その方が稼げるようになった」
「それで、王室のゴシップを?」
「そうだな。あれを撮れた時は、決定的なスクープに高揚はしたが⋯⋯」
「うん?」
「愉しい、とは思わなかったな。⋯⋯ふは、カメラを始めた理由なんてお前が聞かなきゃ、いちいちこんな事思い出さなかったのに」
苦く笑った後に俯いてしまった表情は、もう読み取れなかった。けれども、グレンの事を少しだけ知ることが出来た。たったそれだけで、リオの胸の中には不思議なくらいにあたたかな空気が広がった。
この調子だ、と身を乗り出してあれこれ問うているうちに、馬車は市街地に到着していた。
窓の外では華やかなメイフェアの街並みに、着飾った人々が午後の優雅を嗜んでいる。
リオは窓の外に目をやり、名門テーラーの建ち並ぶ中央通りを眺めた。そこに佇む、一際重厚感のある真っ黒なレンガの壁が見えたところで、馬車がゆっくりと停止した。
「着いた、ここだ」
「へぇ。こんな高級店で仕立ててくれるのか?」
「当たり前だろ。僕付きの護衛なんだから」
ガラス張りになった壁の向こうには、恰幅の良いマネキンがウーステッドやオレンジベルベットの正装をを華やかに着飾っている。大きなガラス扉を開いて店内へ入ると、黒いシルクハットに厳格なタキシードを纏い、白髭を上品に整えた初老のオーナーが笑顔で出迎えてくれた。
「これはこれは、ルシーダ家のおぼっちゃまではありませんか。ご一報いただけましたら我々からお伺い致しますのに⋯⋯」
「あぁ、今日は急ぎだったからね。ビスポークとパターンオーダーを頼む」
いつもならば、仕立て屋といえば屋敷に招くのが貴族のやり方だが、それでは意味がないのだ。リオがわざわざ馬車に乗ってまで市街へ出てきたのは、グレンと屋敷の外で二人で過ごす時間を作りたかったからなのだから。
グレンはというと、こういう店には初めて来たのか珍しそうに辺りをきょろきょろと伺っていて。その背中をばしんと叩いて、オーナに彼を紹介する。
「僕のバトラーになる男だ。僕に釣り合うように仕着せしてくれ」
そうして店内奥の採寸部屋へと案内される。四方を全身鏡で囲まれたその場所の真ん中に置かれた革張りのソファへと腰掛けると、店の執事からシャンパングラスを手渡された。一口飲み下しながら、リオはグレンの採寸を見守る。
「それでは清潔感や品格のあるものにしましょう。黒のウーステッドがお似合いになりそうです。ベストは白のピケなんていかがですか」
「⋯⋯たいそうな服だな」
採寸係が手際良くグレンの背中の幅を計測をしていく。しゅるると計測紐が長く伸ばされれば、彼が長身であることが音で分かる。
自室の中で、それもベッドの上で、彼を見上げることがほとんどだったリオにとって、その体格の良さを知るのは新鮮なことだった。
引き締まった体は、腕や腿は筋肉が付いてがっしりと太いのに、それでいて腰回りは細い。よく見れば足もすらりと長くて、立ち姿だけで様になっている。
当たり前のように奴隷として扱っていたけれど、この男は奴隷になる前はもしかして随分な色男だったのではないだろうか。
「グレン様はスタイルもよろしいので、どんな燕尾服も美しく着こなして頂けそうですね。わたくしどもの腕が鳴ります」
「ふは、そりゃあどうも」
オーナーとグレンがビスポークの最中に何やら談笑している。ちびりとシャンパンに口をつけながら、リオはその様子を黙って眺める。
「このようなお召し物は初めてですか? タキシードなんかもお似合いになりそうですよ」
「あぁ、タキシードなら一年前かな……仕立てたんだが、フイにしちまって。結局袖を通してないな。まぁ、こんな高級店じゃなく安物だったが」
「それは勿体無い。是非次回はうちで仕立てさせてください。とびきり格好良くお仕立ていたします」
「店主は営業上手だな」
一年前というと、たしかグレンが逮捕された頃だ。そのとき、タキシードを着る機会があったということに、リオはどきりとした。
貴族がタキシードを纏うことはそれほど珍しい事ではないが、逮捕前、カメラマンをしていたという市民階級のグレンがタキシードを着ることなど、滅多にあることではないはずだ。
あるとすれば――。
「さぁさ、採寸が終わりました。お次は生地を選びましょう」
瞬刻、リオの中に生まれた焦慮はオーナーの声によって鎮められる。
それは、今考えたって仕方がないことだ。
もし、もしも本当にそうだとしても。
グレンは今、リオの奴隷で、リオのものなのだから。
◆
一時間程かけてグレンの正装を仕立てたあと、パターンオーダーした大荷物を抱えて再び馬車に乗り込む。
このまま屋敷へ戻れば、折角の二人の時間が終わってしまう。それが名残惜しくて、帰りの道でもリオはグレンにあれこれと質問を繰り返した。
育った街の話や、いつから写真を撮るようになったとか、カメラマン時代に会った有名人の話とか。
そのどれもが、リオにとって新鮮だった。会話の端々で、時折グレンがふっと笑うのが嬉しくて、気がつけば夢中になって話しかけていた。
「そうだ、風邪薬のお礼をしないとな」
「お礼? それならこの服で十分だ」
「これは仕事に必要なものだ。礼じゃない。何か欲しい物はあるか? ちょうど市街に出ているし、どこか行きたい場所でも」
言うと、グレンの片眉がぴくりと動く。
リオの背後から西の陽射しがキャビンの中に差し込んで、その表情を映し出した。
「⋯⋯なら、」
少しだけ言い渋った後、リオに向き直って真剣な眼差しを向けるグレン。
彼が褒美としてリオに求めたのは、予想もしていない願いだった。
「⋯⋯会いたい女がいるんだ」
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