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10.慕情

 市街地から程なく離れた郊外。  二人を乗せた馬車は、色とりどりの花畑を横目に、石畳が続く情緒ある通りを進んでいく。 「そこの角、曲がったところだ」 「なら、曲がった先で馬車を停めよう」  そこは石造りの家並みが連なっていて、木造のバルコニーがある庭付きの家が、かつてのグレンの家だと彼は言う。その数メートル手前で馬車を停める。  グレンに「会いたい女がいる」と言われて、連れて来られたのはグレンの家だった。薄っすらと抱いていた焦慮が、再びリオの胸を締め付ける。 「⋯⋯この家に、会いたい女性がいるのか?」 「あぁ、いるはずだ。逮捕されてから一度も帰ってこれなかったから、もう出て行っちまったかもしれねえけどな」  そう言うが、ふと見た庭先には綺麗な花壇があって、赤や黄色の小さな花々が生き生きと咲いている。きっと、この家の住人が育てているのだろう。グレンが会いたがっている、その女性が。 「⋯⋯妻、か?」 「……いいや、正式には婚約者だった。俺は式の二日前に捕まっちまったからな」  そう話すグレンの表情は夕陽に照らされて、どこか切ない。それを見るとなぜかリオまで胸が苦しくなった。  行きたいところに連れて行ってやると言い出したのはリオだったし、今更引き返すことはできない。グレンの願いなら叶えてやりたいという気持ちはほんものなのに、同時にリオの胸に渦巻く焦燥はどんどんと膨れ上がっていく。  グレンが静かにキャビンの扉を開ける。  外に降りようとして身を乗り出したその時、家の扉がゆっくりと開いて、中から赤橙色をした長い髪の美しい女性が現れた。  飾り気のない白いブラウスに足首まで覆う大きなエプロン。どこにでもいる、清楚な農民女性の佇まいだ。緑広がる庭と彼女の柔らかな髪の色がよく似合っていて、その一角にのどかな田舎町の空気が流れる。 「エリサ⋯⋯」  小さく名前を呼ぶグレンを、リオは固唾を飲んで見守る。  胸の内側がざわざわとして気持ち悪くてたまらない。それなのに、グレンの切なげな面差しを見ていられなくて、彼を外に送り出すためにそっと背中を押そうとした。  その時。  エリサという女性が柔和な笑顔を浮かべ、玄関扉の方を振り返る。彼女の視線の先、家の中から、もう一人誰かが出て来たのだ。  鍛え上げられた筋肉をつけた腕に荷物を抱えた、逞しい体格の茶髪の男だった。  馬車の中から二人の会話は聞こえないが、男がエリサを労うように彼女の腰のあたりに手を回す。彼女は照れたように笑って、自身のお腹を撫でる仕草をした。よくよく見れば、ふんわりとしたエプロンの下のお腹は大きく膨らんでいて。  二人は話に夢中になっていて、馬車の存在に気付く様子もない。お互いしか見えていないというような素振りで、馬車とは反対側の道へと歩いて行った。二人の薬指には、銀色の指輪が光っていた。 「⋯⋯、あの男は知り合いなのか⋯⋯?」  リオの問いに、グレンは答えない。ただ、微笑み合って遠ざかって行く二人の後ろ姿を、黙ったままじっと見つめていた。 「⋯⋯馬車を出してくれ」  絞り出すようなグレンの声。ふと見下げた彼の拳は、震えるほどに強く強く握られていた。  帰りの道中、グレンがリオの方を向くことは一度もなく、ひたすらに窓の外を流れていく景色を、頬杖をついてぼおっと見つめているだけだった。  きっとあの茶髪の男は、エリサの夫だ。エリサは膨らんだお腹を撫でていたし、妊娠しているのも間違いないのだろう。  あの男がグレンの知り合いかどうかは不明だが、グレンと婚約していたエリサが別の男と子供を作り結婚したことは確かだった。  それはきっと、彼の刑期中のことだろう。グレンは死刑囚となり、この場所へ戻ってる保証など無いに等しかった。いつまでも還らない男を待つよりも、新しい人生を選んだのだ。  グレンがそれを予想していなかったとは思えない。けれどどこかで信じていたのかもしれない。エリサが、自分を待ってくれていると。そして、別れを告げるつもりだったのかもしれない。エリサの未来のために。  けれど彼女は、もうすでに未来を生きていた。グレンのいない、新しい未来を。  抜け殻のようになってしまったグレンのその姿を見ても、リオはどんな言葉をかければ良いのか分からない。こんな風に誰かを慰めたいだとか、励ましたいだとか、思ったことは初めてなのだから。  狭いキャビンの中、続く沈黙。蹄の音だけが繰り返し聞こえている。 「⋯⋯、僕が」  耐えきれずに口を開いてしまった。けれど、グレンを励ませるような言葉は思いついていない。きっとそういうのは向いていない。  もし、リオにできることがあるとするならば、これだけだ。 「僕があの土地を買い占めてやろうか。そうすれば、あの二人は召使いとして僕の屋敷に連れて行けるぞ」  我ながら良い案だ。たかが奴隷のために土地を一つ増やすなど馬鹿げているが、ずっと窓の外を眺め続けるグレンをどうにかして振り向かせたかった。 「はは⋯⋯、そんなことしないでくれよ」  狙い通り、やっとこちらを向いた彼は力無く笑う。  ベロアのソファの上に投げ出されたグレンの手は、いつの間にか拳が解かれていた。よほど強く握っていたのか、手のひらに爪の跡が赤く残っている。  その跡を撫でるように、指先でそっと触れてみた。  ぴく、と反応したグレンの指が、触れ合うリオの指先に絡めるように柔く折り曲げられて。 「⋯⋯慰めてくれてんの?」 「別に⋯⋯」  少しだけ握り返すと同じ力が返ってくる。そうしてするすると指の触れ合う面積が増えて、気がつけばきゅっと手を繋いでいた。  心臓から指の先端まで流れていく血液が、トクトクと脈打つ。  こうして触れ合っていれば、グレンの痛みが和らげば良いのに、と思えば思うほどに、手のひらの温度は高くなっていった。  それが、リオにとって心地良かった。  屋敷を出た時と同じ沈黙が、馬車の中には流れているのに。その時とは違って、グレンの心に触れられているような気がして。  屋敷に着いた頃には、すっかり夜になっていた。  買い付けた荷物は使用人達に任せて、庭先で馬車から降りたリオは本邸へ、グレンは西の棟へと別々の方へ足を進める。 「なぁ、ご主人⋯⋯」  掠れた声に呼び止められた。 「なに?」 「⋯⋯ありがとうな」  グレンからの予想外の言葉に目を丸くする。  月明かりと外灯の下で、彼の表情が柔らかく微笑んだ気がした。その表情は切なく、仕立てた服のことに対しての言葉ではないのだろうという事はリオにも分かった。  うん、と頷くのを確認すると進行方向へと向き直り、西の棟へ戻っていく男の背中は悲しみに翳っていた。  グレンの背中から目が離せない。  手を伸ばす。  一歩、二歩と離れていくグレンを追いかけて、その腕を掴んだ。 「ねぇ、今からしようよ。二人の秘密」

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