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15.恋心
商人というのは本当に商売のことしか頭にないらしいことを、リオは身を以て体験していた。
あの情事の後すぐに応接室に招いた商人は、持ち寄った高級品をひとつでも多く買ってもらうためリオの機嫌を取ることに必死になって、その整った正装の下に爛れた体が隠されていることなどこれっぽっちも気付いていない。もし気付いていたとしても、口には出さないだろうけれど。
大して興味のない毛皮を前に、満を辞してプレゼンする商人の話に耳を傾けながら、考えていたのはグレンのことばかりで。
どうすればあの瞳を独占できるだろう。どすればあの唇を、あの体を自分のものにできるだろう。一体どうすれば、あの心を手に入れられるのだろう。
きっと、出来ない。
グレンが従順な奴隷である限り、リオが主人である限り、どれだけ金を積んだところで一番欲しいものだけ手に入れられない。
それならもう、いっそのことそれでも良い。求めなければ、惨めになることだって無い。
待てと言えば待っていて、来いと言えば来る奴隷だ。リオにとっては何ひとつ不自由なんてないのだから。
今この時だって、この商談が終わればグレンはきっと扉の前で待ってくれているだろう。言いつけ通りに、リオから目を離さないでいてくれるはずだ。
それで、十分じゃないか。
そう思っていたのに。
商談を全て終えたリオが応接室の扉を開けた時、そこにグレンの姿は無かった。
自室に戻って身なりを整えるように言いつけたのは、一時間ほど前だ。まさかこれほど時間がかかるはずがないだろう。すぐにここへ戻って来るように言っていたのに、どうして居ない。
大広間に向かい、色とりどりのドレスが翻るフロアを縫うように目を凝らす。すると奥の一角に、ひときわ女性が集まっているところがあった。その真ん中に頭ひとつ分だけ飛び抜けている、黒髪。
「あそこにいるのか」
グレンを取り囲む女性たちは皆、片手にマティーニの入ったカクテルグラスを持っている。どうやら酒を煽られているらしい。
主人の言いつけも守らずに一体どこで油を売っているのかと思えば、貴族に混ざって酒宴とは結構なご身分だ。
ちっ、と無意識に舌打ちしたリオは、その人だかりのところまで風を切るようにしてドレスの合間をすり抜けた。
「さぁさ、もう一杯お飲みになって? ぜひ今夜はわたくしのお屋敷に来てちょうだい、グレン様」
言って、人だかりの真ん中でグレンと対峙する貴婦人が手に持ったマティーニを一気に飲み下した。
貴婦人の名はカレン。酒豪で有名な貴族で、気に入った男に酒を煽り、酔わせたところで屋敷に持ち帰るのが彼女の常套手段だ。近くのテーブルには空になったグラスがずらりと並べられていて、二人で交互になってこの量を飲んだのだと察する。
後を追うようにグレンも一杯のマティーニを飲み干せば、周りからは女性たちの黄色い声が飛び交った。
苛立ちが膨らむ。
まるでグレンを自分のもののように扱う女たちに。この状況を甘んじて受け入れているグレンに。
リオ以外と向き合うグレンに。
リオ以外を見つめるグレンに。
ぐ、と奥歯を噛みながら、人だかりの真ん中へとするりと抜けたリオは、続けてもう一杯を手にしたグレンからカクテルグラスをしなやかに奪い取る。
そうして彼の肩を引いて、優美な貴婦人の前に立ちはだかった。
それはそれは、凛として気品の高い笑みを浮かべて。
「あまり僕の使いをいじめないでくれるかな」
「まぁ、リオ様!」
途端に人だかりがどっと沸き立つ。おい、と後ろからグレンの声が聞こえたが、無視だ。マティーニを口の中に一気に流し込み、にっこりと女殺しの笑顔を作れば、たちまち女性たちは目の色を変えた。日頃から貴族たちと親交の薄いリオだが、その容姿の美しさは女性を惹きつけるだけの威力があることを自覚している。
「リオ様、今夜はどちらにいらっしゃったのですか? リオ様にお会いしたくて伺ったのに」
「今夜もとてもお美しいですわ、リオ様。次の曲、わたくしと踊ってくださいませんか?」
狙い通り、次々と声を掛けられる。どうにかグレンから気を逸らし、女性たちの目を自分に向けさせたかった。のだが、マティーニが思っていたよりも強かったのか、くらりと視界がよろめく。同時に、周りのどよめきが頭の中にぐわんと響いた。
何かがおかしい。酒を飲むことは初めてではないし、マティーニを口にしたことだってあるのに。いつもよりも甘ったるい匂いが鼻腔の奥に沈んで、体が火照るような感覚。
リオの算段ではこのまま貴婦人の気を自分に向けさせて、その間にグレンを自室に帰し、何杯か酒を交わした後で適当にあしらうつもりだった。それなのに、たった一杯で酔いが回ってしまってはそんなこと到底出来そうにない。
だいたい、どうしてこんな真似をしてしまったのだろう。これではまるで、きつい酒を煽られているグレンを貴婦人から助けたかったみたいだ。
違う。リオの言いつけを守らずに貴婦人なんかと向き合っていたグレンに苛立った。邪魔をしたかった。助けたかったわけじゃない。
だってグレンは、もしかしたら本当は好んでここで貴婦人と酒を交わしていたのかもしれない。自分なんかよりも、貴婦人といる方が楽しいと思ったのかもしれない。
気に入らない。気持ち悪い。腹が立つ。
形のない重苦しい感情が酒と共に腹の奥にどろりと沈んでいく。今すぐにでも吐き出したい。
考えるほどに酔いが回っていく。
「それでは皆さん、⋯⋯良い夜を」
女性たちに向かって精一杯に笑いかけたあと、リオはその場から逃げるように中庭へと向かった。
すぐ後ろから、グレンの声が追いかけてくる。けれど、振り返ることなく一目散に中庭へ飛び出し、丁寧に手入れされた芝生を突っ切ってひと気の少ない西の棟の方へと進んでいった。とにかく、静かなところで冷たい風を浴びたかった。そうでないと、酒に酔った体が理性を揺さぶって、グレンに向かって今にも良からぬことを言い出してしまいそうな気がして。
「おい、待てって!」
ついに追いつかれて、ぐいと腕を掴まれた。それでも進行方向を向いたまま、グレンの方は振り返らない。というより、振り返りたくない。
怒りのような、悲しみのような感情が渦巻いて、そのすべてをグレンにぶつけたくなってしまう。きっと、マティーニのせいだ。
「ふらふらになってんじゃねえか。お前あれが何か分かって飲んだのか? そもそも酒飲める年齢なのかよ」
「うるさい、馬鹿にするな!」
振りほどこうとした腕を強く掴み直されて、バランスを崩した体は腰から優しく彼に抱かれてしまった。アルコールで火照る体にグレンの体躯が触れて、どくんと心臓が大きく波打つ。
「な、なにす⋯⋯、離せ、」
「しっ。静かにしてろ」
ぎゅっと抱きすくめられたとき、遠くから貴婦人たちのリオを呼ぶ声がして咄嗟に息をひそめた。おそらくリオを探しているのだろう、数人の貴婦人が薄暗い中庭をうろうろとしているが、幸い大きな木の陰が二人の姿を隠していて、こちらには気付かない。
灯りの少ない中庭に、涼風が吹き抜けていく。それが気持ちいいはずなのに、密着したグレンの体のせいであちこち熱くて、立っているのもままならなくて。
貴婦人たちの気配が遠ざかり、グレンの腕が解かれる。
「⋯⋯歩けるか?」
「歩けない。動きたくない」
脱力してその場にしゃがみ込もうとした刹那、今度はふわりと体が浮いて、酒に酔ったリオの頭では己の体がグレンの肩に担がれたということに気づくまでにほんの少しの時間がかかった。
「ここからだと、俺の部屋の方が近いな」
「ぅ、え? なに? 行きたくない」
「少し休んだら自室に戻れば良い」
「下ろせ! 嫌だ、お前の部屋になんか行かない」
グレンの背中をぽかぽかと殴って暴れても、両腿をぎゅっと持たれるとバランスを崩しそうになってしまうから身を委ねるしかない。
体内を巡るアルコール以上にグレンの匂いがリオを酔わせて、まともな思考も感覚機能さえをも狂わせていく。
数時間前、この体を快感に浸した男の――大好きなのに、大嫌いな匂い。
どうせ手に入らないのに。
泣きそうだ。
イライラして、悔しくて、惨めで。
ぜんぶぜんぶ、グレンのせいだ。
「お前なんか、大キライだ⋯⋯」
わずかに掠れた声は、通り抜けていく夜風に攫われた。
これは病気だ。グレンのせいで、自分のことがもっと嫌いになっていく。
それなのに、どうして。
西の棟まで向かう中庭の道、貴族たちの遊戯の音がだんだんと遠のいていくほどに、このまま二人でどこかに消えてしまいたいだなんて、思ってしまっている。
月明かりの下。
グレンの大きな背中を間近に感じながら、彼にバレないようにそっと涙を拭った。
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