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17.愛惜
「僕を、見てよ⋯⋯」
告げた唇を静かに閉じた。
言ってしまった、と悔やんでも、その声はもうグレンの耳に届いてしまった。グレンの心に、聞かれてしまった。
言わなければ、このまま主人と奴隷として暫くは一緒に過ごせたかもしれないのに。偽って、繕って、まがい物の幸福を手に入れられたのに。
ゆっくりと瞼を閉じる。酒と媚薬に酔わされ黙っていられなかった己を悔いて、眦がじわりと濡れていく。
リオとは対照的に、グレンはだんまりのままだった。彼が今何を考えているのかすら、リオには分からない。馬鹿な貴族だと嗤うのを堪えているかも知れない、と思えば、ますます自分が惨めになっていく。
首輪を外してしまった。つまりは、グレンを解放したということだ。
奴隷としてでしかグレンを繋ぎ止めておけないくせに、もしかしたら――なんて、期待した自分が恥ずかしい。
昨日、馬車に乗って共に買い物をして、色んなことを話してほんの少しずつお互いを知った。あんな風に二人で過ごしていけるんじゃないかと、どこかで淡い理想を思い描いてしまった。
そんなことを、きっとグレンは望んでいないのに。
最後まで身勝手で横暴な欲をぶつける事しか出来ない自分に、心底嫌気が差す。グレンを好きだなんて思わなければよかった。グレンに愛されたいだなんて思わなければよかった。
まっすぐに射抜く視線も瑞々しく熱い唇も、まるで月の光のようにリオを魅了する表情も、首輪を外した今はそのすべてがリオのものではないという事実に少しずつ、胸が軋んで苦しい。
こんな男に、心を掴まれたくなかった。
嫌いになりたい。きらいになりたい。唱えれば唱えるほど、涙が止まらない。
「⋯⋯きらい、お前なんか、大きらい⋯⋯」
もう嫌だ。早くここから立ち去りたい。
グレンの体を押しのけようとした腕を、優しく掴まれる。離せ、と告げる前に、言葉ごと飲み込むような濃密なキスに唇を塞がれて。
「んっ⋯⋯! ふ、⋯⋯」
この一週間、ずっと焦がれていたグレンの唇が柔く、優しく、宥めるようにリオの唇をあやす。抵抗しようとする腕を押さえつける力は強いのに、触れ合っている唇は溶けるほどに柔らかく、これ以上ないほどに甘く優しい。
「ん、んぅっ⋯⋯な、んで⋯⋯、」
「ご主人が泣いてるから」
「⋯⋯?」
「こないだも、キスしたら泣き止んだろ」
すりりと親指で頬の涙を拭われる。濡れた跡にちゅ、と口付けられて、至近距離で見つめ合った。
グレンは狡い。このまま流されたくなんてないのに、こんなふうに優しくされたらまた期待してしまう。
どうせ同じ夜を繰り返すだけなのに。
また爛れていくだけなのに。
それでも、耳のそばで聞こえる心音がだんだんと顔を熱くしていく。きっと頬も、耳までも赤く火照ってしまっているだろう。
この体はどこまでも裏切り者だ。紅潮していく肌も、体内も、心も。ただただ従順にグレンに向かって熱を持ち、高まっていく。
「だったら⋯⋯、もう一回キスしてよ⋯⋯」
甘えるように縋る声はもう、命令ではなく強請っているようなものだった。情け無く縋る自分が嫌になるのに、分かりきったようにグレンが目を細めるから、その仕草に息を飲む。
ランプの明かりが遮られて、もうグレン以外何も見えない。ふたたび触れた柔らかな感触。今度は舌根が絡まるくらいに深く、とろりと唾液が混ざり合った。
「ん、は⋯⋯ぁ⋯⋯」
柔らかくて生温かい。舌の使い方なんて知らないけれど、丁寧に優しく口内を舐められるのが心地良くて、陶酔してグレンの舌を追いかける。お互いの熱が重なり合って、皮膚も粘膜も、溶けてしまいそうだ。時折漏れる吐息は、もうどちらのものかも分からない。
「なぁ、ご主人⋯⋯キスだけでいいのか?」
つぅ、と二人の間を透明な糸が繋ぐ。しなやかな指で髪の間を梳かれると感度が色んなところに散らばって、それだけで体は小さく震えて。
もう、グレンは自由の身なのに。首輪を外して解放してやったのに。
一体これは、どういうことなのだろう。
揶揄われている、試されている、陥れられている。
いろんな最悪のパターンを思い巡らせても、たった今目の前にある欲しいものを拒めるほど大人にはなれない。
「は、ぁ⋯⋯、⋯⋯ゃだ、」
息を切らしながら、ふるふると首を振る。
「ふは、その色っぽい顔⋯⋯撮りたい」
髪を撫でていた手が頬を包んだ。レンズで覗かれているような眼光が真っ直ぐリオに注がれる。奴隷市場の檻の暗闇で射抜かれたあの視線が、リオだけを捉えている。
カメラ越しに覗かれるよりももっと官能的で色情的なガラス玉の瞳に、リオの性感がぞくぞくぞくと昂ぶった。
「撮らなくて良い⋯⋯僕をその目に、直接映してほしい⋯⋯」
告げると、グレンが息だけで笑う。
何度も妄想した夜だ。今夜、この男に抱かれる。たった一度きり、妄想を現実にできるのだ。
錯覚でも良い。幻想でも良い。確かなのは、今この瞬間だけはこの男の瞳を独り占め出来る、という事だけ。明日の朝、どれだけ傷付く事になったとしても。
カメラはもう必要ない。この瞳さえあれば良い。
グレンの首筋についた首輪の跡を指先でなぞる。それは、たった数週間だったがこの男がリオのものであった証明だ。
目を合わせる。
そうして薄く唇を開いたリオは、わざとらしく瞳を潤ませた。
「僕を……お前のものにしろ」
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