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わかんない
「辻村くん、今大丈夫かな? 休憩中だったらあとでもいいんだけど……どうした? 顔色が少し悪いように見えるけど」
「! す、すみません大丈夫ですっ……あ」
大きな音を立て椅子から立ち上がった途端にキャスター付きの椅子が後ろへ滑っていく。
「くはは、驚きすぎだよ。はい、座って座って。僕すぐ戻るから」
「す、すみません、ありがとうございます」
武岡課長はいつもと変わらない、いや、いつもより少し苛立っているように見える。
気のせいだろうか。
「体調は大丈夫? もししんどかったりしたらすぐに言ってね」
「い、いえ全然大丈夫です。仕事も減らして頂いてますし」
「それは良かった。渡してなかったよね? これ来週の会議の資料。
すぐに最後まで目を通してもらってもいいかな。じゃあまた後で」
「え、はい、ありがとうございます」
武岡課長が戻っていくのを見送り、資料に目を通す。
「……ん?」
一番最後のページに大判の付箋が貼ってある。
『今日は絶対に定時で上がってね。辻村くんのヒートについて話があるから。
前一緒に酒呑んだ店の前で待ってます。 武岡』
「お疲れ様、良かった来てくれて」
「……お疲れさまです」
会社の時との態度と一変し警戒してます、と言わんばかりに距離を取られる。
「まあいいや、辻村くんこっちこっち。今日は営業休みだから表からじゃなくて裏から入るよ」
「え? い、いいんですか」
「今日は休みだから表は閉まってるんだよ。マスターから鍵も預かってるし、ほら」
少し悩んだ末に恐る恐るといった様子でついてくる。
「う、わ、すごっ……!」
「あ、お酒とか触らないでね。マスターがうるさいから」
普段は入ることができないカウンターの内部に入って少しはしゃいでいるようだ。
新しいおもちゃを与えられた子供のように目を輝かせ眺めている。
僕が好きなのは、あのときの辻村くんの獣のようなギラギラした目、なのに。
今の彼はあのときとは正反対だ、僕の好みではない、はずなのに。
なぜ僕は今、抱きしめたい、なんて思ったんだろうか。
「レオ、もうきちょったか。連絡くれりゃあ良かったに」
辻村くんが叱られるのを察知した子供のようにビクゥっと飛び跳ねる。
「すんません驚かせてしもうて、ちっくと用意するんでカウンター席の方に座ってもろうてもえいですか?」
「え、え? ……マスター?」
「マスターであってるよ。マスターは休みモードと仕事モードのオンオフが激しいタイプなだけだから気にしなくていいよ。
用意するからカウンター席に座ってて言ってる」
「は、はい。
……あ、あの、全然違うんですね、その、驚いてしまってすみません」
「大丈夫だよ、マスター気にしてないから。
マスター仕事の時は渋いイケメン、みたいな感じだしてるけど普段はこんなんなんだよ。
僕と喋ってると方言出るから仕事中はお互い敬語、あとあんまり喋らないようにしてるんだよね」
「レオ、あんまし余計なこといいなや。おれの男前なイメージが崩れるやろが。
ちっくといつもと違うけど、あんまし気にせんでくださいね」
「は、はい」
ちょっと準備してくるけ待っとき、とマスターが奥の方へと消えていく。
「マスターすごい喋り方でしょ? 初めは聞き慣れないと思うけど慣れたらなんとなくわかるようになるよ。まあ、何言ってるのかわかんなかったら僕に聞いて。マスターも特に気にしないしマスター自身言い方直す気ないし」
「そう、なんですか。
……ちょっと父さんの話し方にも似てて、なんとなくわかる気がします。ほんとなんとなく、ですけど」
「へえ、ご両親は田舎、じゃなくてなまりとか方言が強い人?」
「え? 確か母さんと父さんはそうですけどおとう「おまたせぇ……あーもしかして喋っちょるところじゃったか?」
「いえ、大丈夫です」
「今日は辻村さんも来てくれるって聞いたさけぇ、この間好きゆうてたから卵焼きにしてみてん。口に合えばいいげんけどなぁ」
「いいんですか、ありがとうございます」
マスターと楽しそうに喋っている。
僕の前では絶対しない嬉しそうな顔をして。
「レオ、おまんはなしてそんなふてくされた顔しとるがよ」
「してないよ、考え事してただけ。この卵焼き、甘め? それともだし巻き?」
「どっちかをなー、メニューに入れようと思うげんけど、自分じゃあどっちのほうがえいかもわからんさかい。好きな方教えてもろうたら参考にしたいんよ。
食べてみてくんさい」
「いただきます」
「……」
卵焼きに箸を伸ばす。
口に入れた途端、卵の味が広がる。少し甘めの味付けで卵本来の味を邪魔しない、なんなら良さを引き立てるような味わいで、すごくすごく……
「……口の中いっぱいに卵の味が広がってほんとに卵ですごく美味しいと思う。僕は嫌い」
「そげな嫌そうな顔しながら食いなや。元々おまんに期待なんぞしちょらん。ほら、ソースにつけた煮玉子、前とちょっきし味付け変えたやつ食い」
「え、卵嫌いなんですか?」
「いんや、レオは卵って味が全力主張してくる味が苦手なだけや。卵かけご飯とか、オムレツとか卵焼きとか。なんや、ケーキとかソースに付けた煮玉子とか親子丼とかな、味があんまわからんやつとか、他にも具材ぎょうさん入っちゅうやつ好きやねんけどな」
「マスター、この煮玉子すっごい美味しい。前のよりソース濃いめで絶対酒と合う。これメニューに入れて。僕が頼むから」
「はいはい……辻村さんの方はどうで? どっちのほうがえかった?」
「俺は……どっちも美味しかったんですけどお酒と合わせるなら、だし巻きのほうがいいと思います。あの、でも本当にどっちも美味しかったです」
「えいえい、そんな気ぃ使わんで。んじゃ、ちょっと奥の方行っとくさかい話終わったら呼んでな」
ぱたん……と扉が閉まり少しの沈黙が流れる。
「‥‥マスターいなくなったし少し真面目な話をしようか」
「……はい」
「まず、辻村くんの抑制剤は僕が預かってる。あとヒートが起きたら強制的に僕の家に泊まってもらうから」
「は?!」
「ま、待ってください。えっとどこから話せば……」
「そうだね最初から、まずは辻村くんのヒートの話からしよう」
「辻村くんは僕と番になっていない、ヒートに関してはいつ起こるのか、そもそもヒートが来るかもわかってない状態。ここまではいい?」
「……はい」
「医者いわく、初めてのヒートはパニックになってしまうオメガが多く、また自分では気付けない場合も多いらしい。ただの体調不良かと思ってたらヒートでアルファに襲われたって話もある。そして抑制剤の多量摂取。無理やり抑えようとして逆に悪化して病院行き、なんてこともあるらしい」
「……」
「子供なら親が抑制剤の管理とかしてるらしいけど、辻村くんはそれができないから僕が代わりにやる」
「……別にそれぐらい俺一人で」
「で・き・な・い。人に頼りなさい、自分で何でもできると思わない。
ヒートは重い風邪だと思えばわかりやすいかな? 四十度の熱出たときに御飯作ったり自分で着替えたりするのを普段どおりできるの?」
「……それは」
「……それに安全性の問題もある。辻村くんの匂いにつられてアルファが襲わない、なんてことは言い切れない。
その点僕の家はセキュリティしっかりしてるし問題はない」
「一番危ない人が隣りにいますが?」
「信用してくれなくていいよ。当たり前だよ、僕のせいなんだから。
でも、僕はもう辻村くんを傷つけたくない、君が嫌がることはしない、それだけは信じてほしい」
「……」
辻村くんが顔を下にそむけて完全に僕と目を合わせなくなってしまった。
そんな彼の手を取り、両手で握りしめる。
「な、なんですか」
「辻村くんが了承してくれるまで僕はこの手を離さない。
僕は辻村くんが僕以外のやつと番になるなんて許さない。
そして僕は辻村くんがいいって言うまで君に手を出さない。
絶対に」
「た、武岡さん、ちょっ」
「な~にを人ん店で勝手にプロポーズみたいなことしとるがぁ」
「!?」
「……マスターいつから聞いてた?」
「そんな怒りなや。僕はこの手を離さない、のあたりからや。
それより前は聞いちょらん。忘れ物取りに来たら、なんかいい雰囲気になっちょったさけぇ出てきたんや。
プロポーズするなら演出も、もっとしっかりしたんに」
「……えー、それはもったいないことしたなぁ。
ちょっと僕、トイレ行ってくるねー」
二人から顔を背けた途端、顔から感情を消す。
マスターが戻ってきてからなぜかすごく苛立っている。けれど心は満たされているような、ちぐはぐな状態。
なんていうんだろう、感情と体と心が、全部違う方向に動いてるって感じ?
普段ならこの衝動を、衝動のまま犯したくなるのに。
さっきまで彼を握っていた手を見つめる。
『武岡さん』
「……なんで辻村くんが出てくるのかなぁ」
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