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第4話
一之介が引き上げてゆくと、琅一には離れの一室が与えられた。
ちょうどしろの部屋の次の間で、琅一はからりと障子を開け、荷解きをはじめた。荷、といっても、持っているのは風呂敷包みひとつきりだったが、中のものを大事に使っているらしく、丁寧な手つきで長持の横へ並べた。
「これから、よろしく」
こほん、こほん、と空咳をしながらしろが言うと、ぺこりと頭を下げられた。
「あの。きみの故郷はどこ?」
尋ねるが、琅一は無言である。しろは同年代の子どもと交流することがあまりなかったので、何を話したらいいかわからず、もしかして出身を尋ねることは失礼なことだったのかもしれない、と思い直した。
琅一は、荷物を解きを終えると、静かな表情で庭を見た。
「この庭、今は枯れているけれど、春には梅や桜が咲くし、鶯もやってくるんだ。沈丁花や紫陽花、秋は紅葉。きれいだよ。父上がおれの病気を案じて、寂しくないように丹精してくれてる。あ、調子のいい日は、池の鯉に餌をやることもできるんだ。こほっ。ごめん、咳して」
しろが指で示すと、琅一は興味があるのかないのかわからない視線を彷徨わせた。
「でも、花びらの煎じたものを飲んだせいか、今日はだいぶいい。外を見ないか?」
しろは琅一が何を好むのか全く見当がつかず、誘ってみた。
すると、母屋にいるはずの猫が鳴きながら入ってくる。
「おいで、ミケ」
三毛猫の不機嫌そうな顔を見て、しろが手を伸ばすが、猫はふいとしろを無視して離れの奥へと消えた。
「動物に好かれない体質なんだ。俺の病気を警戒してるのかな。今日みたいに顔を見せてくれる日は、少ないんだよ。お客さんがきたから気になったのかも。こほっ、こほっ」
一度に話すとどうしても咳が止まらなくなる。
「あ、ごめん。おればかり話して」
そして黙ると、気まずい沈黙が降りた。
「……少し、縁側に出てみようかな」
雪見障子が半分上げてあるため、外が透けて見えたが、しろは濡れ縁へとはいずって出ようとして、障子の手前で咳き込んだ。布団の敷いてある床の間から縁側までの、たった一間の距離がやけに遠い。腕を突っ張ってずるずる布団から這い出ると、見かねたのか、琅一に腕を掴まれ、脇の下をひょいと持ち上げられた。
振り返ると、軽さに驚いた顔をした琅一が、肩を貸してくれる。花びらが零れるのもそのままに、濡れ縁の真ん中へと掛けさせてくれた。
「ありがとう」
こほっと咳をして縁側に座り、沓脱石に足を下ろすと、琅一が隣りに座った。石の上にはしろ用の草履が用意されており、数間先に作られた池には錦鯉が泳いでいる。琅一がいるのなら、もう一揃え履き物を用意してもらった方がいいかな、としろは思った。今日のように調子のいい日に、庭を散策できるようになりたい。
座敷が南向きに拓けているため、陽光が暖かかった。時々、咳が出るのを気にするしろの背中を、そっと琅一がさすってくれる。愛想はないけれど、優しい性格なのだろうと思った。
陽に照らされたしろの部屋の床の間には、美しい椿が一輪生けてある。だが、床脇と呼ばれる床の間のすぐ隣りの空間は、しろの読んだ本で一面埋め尽くされていた。琅一がそれに視線をやったので、しろは恥ずかしくなって俯いた。
「おれはこの病気……花弁症? のせいで、誰とも遊べないで育ったから。同い年ぐらいの子がいるのが、嬉しいんだ。こほっ。外ではみんな、どうしてるのかな。どんな遊びをして、学校にも通ってるのかな」
父銀有の与えてくれるものに、感謝しかないしろだったが、それでも、郷の子どもたちが騒いで歩く声を聞くたびに、心が凍っていく気がするのだった。
「きみは、学校は? こほっ」
しろが咳をすると、静かに背中をさする手が、ふいに止まった。
琅一が遠くに目をやるのを見たしろは、少し同情した。しろのためとはいえ、父親に、ひとり知らない屋敷に置いて行かれたのだ。さぞ心細いことだろう。そう思ったら、しろのために残ってくれたことに感謝するとともに、恨まれても仕方ないと思った。
「……ごめん」
琅一の心がわからないしろが呟くと、琅一が振り返り、まっすぐしろを見た。その視線の強さに、おどおどとしろは瞼を伏せてしまう。
「あ、その……かるた、とかやらないか? 百人一首もあるよ。こほっ」
「身体に触る。無理はしない方がいい」
琅一の声は、まるで感情を含まない闇のようで、吸い込まれそうになったしろは俯いた。琅一の言うとおり、無理は禁物だ。今は花びらの作用で楽だが、いつまた苦しい状態に戻るか知れたものではない。
「そう……だね。ごめん」
こほっ、こほっ。
咳が出てきて、布団に戻らなければと思うが、言い出せないでいると、琅一が立ち上がった。
「もう横になった方がいい」
しろの腕を引く。
「あ、うん……」
琅一の力で持ち上げられ、布団に入ると、花びらが零れるのも構わず、琅一は布団を首元まで掛けてくれた。
「同い年の子と話すの、久しぶりで。ありがとう、楽しかった」
しろが感謝を伝えると、琅一は無表情のまま言った。
「俺は数えで十三になる。あんたより二つ年下だ」
「こほっ、え? 十三歳?」
自分より二つも年下だということに衝撃を受けたしろが尋ねると、琅一は照れたような表情をした。確かに、表情が乗ると年相応の顔になることもあるようだ。
「身体が大きい方だと言われている」
「そ、そうなんだ……」
(そういえば、十の時から一之介先生に付いていると言ってたな……)
しろは関心しながら、同時に自分の幼さを恥じた。
しろが横になり、することがなくなると、琅一は教科書を取り出して勉強をはじめた。その様子を見ていたしろに、琅一は顔を伏せたまま言った。
「俺は学校が遅れているから、時間があれば少しでも勉強しないと」
見ると、小学校の教科書だった。平仮名と簡単な漢字。漢字には振り仮名が振ってある。
(そうか、字が……)
だからかるたなどに誘っても、乗ってこなかったのだ。
しろは自分のあさはかで考えの足りないところを、密かに悔いた。
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