4 / 40

第4話

 一之介が引き上げてゆくと、琅一には離れの一室が与えられた。  ちょうどしろの部屋の次の間で、琅一はからりと障子を開け、荷解きをはじめた。荷、といっても、持っているのは風呂敷包みひとつきりだったが、中のものを大事に使っているらしく、丁寧な手つきで長持の横へ並べた。 「これから、よろしく」  こほん、こほん、と空咳をしながらしろが言うと、ぺこりと頭を下げられた。 「あの。きみの故郷はどこ?」  尋ねるが、琅一は無言である。しろは同年代の子どもと交流することがあまりなかったので、何を話したらいいかわからず、もしかして出身を尋ねることは失礼なことだったのかもしれない、と思い直した。  琅一は、荷物を解きを終えると、静かな表情で庭を見た。 「この庭、今は枯れているけれど、春には梅や桜が咲くし、鶯もやってくるんだ。沈丁花や紫陽花、秋は紅葉。きれいだよ。父上がおれの病気を案じて、寂しくないように丹精してくれてる。あ、調子のいい日は、池の鯉に餌をやることもできるんだ。こほっ。ごめん、咳して」  しろが指で示すと、琅一は興味があるのかないのかわからない視線を彷徨わせた。 「でも、花びらの煎じたものを飲んだせいか、今日はだいぶいい。外を見ないか?」  しろは琅一が何を好むのか全く見当がつかず、誘ってみた。  すると、母屋にいるはずの猫が鳴きながら入ってくる。 「おいで、ミケ」  三毛猫の不機嫌そうな顔を見て、しろが手を伸ばすが、猫はふいとしろを無視して離れの奥へと消えた。 「動物に好かれない体質なんだ。俺の病気を警戒してるのかな。今日みたいに顔を見せてくれる日は、少ないんだよ。お客さんがきたから気になったのかも。こほっ、こほっ」  一度に話すとどうしても咳が止まらなくなる。 「あ、ごめん。おればかり話して」  そして黙ると、気まずい沈黙が降りた。 「……少し、縁側に出てみようかな」  雪見障子が半分上げてあるため、外が透けて見えたが、しろは濡れ縁へとはいずって出ようとして、障子の手前で咳き込んだ。布団の敷いてある床の間から縁側までの、たった一間の距離がやけに遠い。腕を突っ張ってずるずる布団から這い出ると、見かねたのか、琅一に腕を掴まれ、脇の下をひょいと持ち上げられた。  振り返ると、軽さに驚いた顔をした琅一が、肩を貸してくれる。花びらが零れるのもそのままに、濡れ縁の真ん中へと掛けさせてくれた。 「ありがとう」  こほっと咳をして縁側に座り、沓脱石に足を下ろすと、琅一が隣りに座った。石の上にはしろ用の草履が用意されており、数間先に作られた池には錦鯉が泳いでいる。琅一がいるのなら、もう一揃え履き物を用意してもらった方がいいかな、としろは思った。今日のように調子のいい日に、庭を散策できるようになりたい。  座敷が南向きに拓けているため、陽光が暖かかった。時々、咳が出るのを気にするしろの背中を、そっと琅一がさすってくれる。愛想はないけれど、優しい性格なのだろうと思った。  陽に照らされたしろの部屋の床の間には、美しい椿が一輪生けてある。だが、床脇と呼ばれる床の間のすぐ隣りの空間は、しろの読んだ本で一面埋め尽くされていた。琅一がそれに視線をやったので、しろは恥ずかしくなって俯いた。 「おれはこの病気……花弁症? のせいで、誰とも遊べないで育ったから。同い年ぐらいの子がいるのが、嬉しいんだ。こほっ。外ではみんな、どうしてるのかな。どんな遊びをして、学校にも通ってるのかな」  父銀有の与えてくれるものに、感謝しかないしろだったが、それでも、郷の子どもたちが騒いで歩く声を聞くたびに、心が凍っていく気がするのだった。 「きみは、学校は? こほっ」  しろが咳をすると、静かに背中をさする手が、ふいに止まった。  琅一が遠くに目をやるのを見たしろは、少し同情した。しろのためとはいえ、父親に、ひとり知らない屋敷に置いて行かれたのだ。さぞ心細いことだろう。そう思ったら、しろのために残ってくれたことに感謝するとともに、恨まれても仕方ないと思った。 「……ごめん」  琅一の心がわからないしろが呟くと、琅一が振り返り、まっすぐしろを見た。その視線の強さに、おどおどとしろは瞼を伏せてしまう。 「あ、その……かるた、とかやらないか? 百人一首もあるよ。こほっ」 「身体に触る。無理はしない方がいい」  琅一の声は、まるで感情を含まない闇のようで、吸い込まれそうになったしろは俯いた。琅一の言うとおり、無理は禁物だ。今は花びらの作用で楽だが、いつまた苦しい状態に戻るか知れたものではない。 「そう……だね。ごめん」  こほっ、こほっ。  咳が出てきて、布団に戻らなければと思うが、言い出せないでいると、琅一が立ち上がった。 「もう横になった方がいい」  しろの腕を引く。 「あ、うん……」  琅一の力で持ち上げられ、布団に入ると、花びらが零れるのも構わず、琅一は布団を首元まで掛けてくれた。 「同い年の子と話すの、久しぶりで。ありがとう、楽しかった」  しろが感謝を伝えると、琅一は無表情のまま言った。 「俺は数えで十三になる。あんたより二つ年下だ」 「こほっ、え? 十三歳?」  自分より二つも年下だということに衝撃を受けたしろが尋ねると、琅一は照れたような表情をした。確かに、表情が乗ると年相応の顔になることもあるようだ。 「身体が大きい方だと言われている」 「そ、そうなんだ……」 (そういえば、十の時から一之介先生に付いていると言ってたな……)  しろは関心しながら、同時に自分の幼さを恥じた。  しろが横になり、することがなくなると、琅一は教科書を取り出して勉強をはじめた。その様子を見ていたしろに、琅一は顔を伏せたまま言った。 「俺は学校が遅れているから、時間があれば少しでも勉強しないと」  見ると、小学校の教科書だった。平仮名と簡単な漢字。漢字には振り仮名が振ってある。 (そうか、字が……)  だからかるたなどに誘っても、乗ってこなかったのだ。  しろは自分のあさはかで考えの足りないところを、密かに悔いた。

ともだちにシェアしよう!