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第9話

 梅見から帰ると、銀有が厳しい表情をしていた。 「琅一、話がある。少しいいだろうか」  そう琅一を促す声は、店の者を叱る時の口調になっていた。 「何でしょう? しろさんに関わることですか?」  琅一は身構えた。 「花びらの件だ。一之介どのはいつ戻るとも知れぬ。一刻を争うゆえ、お前と話す」  銀有は硬い声でそれだけ言うと、しろのいる離れに琅一を誘った。 「待って、父上。おれのことなら、おれにも聞く権利が……」 「お前は黙っていなさい、しろ!」  しろが言うと、叱り飛ばされた。こんな風に声を荒げた銀有を見るのは初めてで、しろがびっくりしていると、銀有は琅一の起居している部屋に入り、しろの目の前で障子を閉めた。  しかし、話し声は聞こえてくる。  琅一の部屋に続く障子の前で、しろは声だけを聞いた。 「一刻を争うというのは?」  琅一が静かで無機質な声で促すと、銀有は低く唸った。 「貸与費用として、一日二円は高すぎる。それと、あの花びらを取っておいて、あとで一之介どのの元に送っているのには、何か意味があるのか? 捨てればいいようなものを、なぜ後生大事に取っていなさる?」 「それは……」 「いや、それはともかく、二円は高すぎる。五十銭にまけてもらいたい。しろもこうして元気になったことだし、毎日伽子をしなくとも、一日置きでも問題ないのでは?」 「お師匠様の命令ですので」 「師匠の命令なら、無駄なことを無駄と知りながら続けるのか? それでは無能ではないか。何のために金を払っていると思っているのだ」  銀有の苦い声が一之介のことに及ぶと、少し琅一がむきになった。 「お師匠様を侮辱するような発言は……」  しかし、琅一の反駁は、はからずも銀有の火に油を注いでしまったようだった。 「学もない子供を相手に、私に折れろと言うのか!」  銀有がたまりかねたように怒鳴った。 「あれは万能薬だろう! だから後生大事に花びらを取っておいて、あとで高値で売るつもりなのだろう! 商売人を騙そうとするなら、ただじゃおかないぞ!」  銀有の声は大きくなる。母屋まで届くのではと思うような叱責だった。 「うちがこの辺りの取引先に働きかければ、お前たち薬師が働けぬようにすることもできるのだぞ!」  銀有が癇癪を破裂させても、琅一の声は無機質なままだった。 「なぜあれが万能薬だと思うのですか?」 「あの子の母親の形見の花びらを煎じたものが、胃痛に効いたからだ! あんないい薬があるとわかっていたら、あれを売ればもっと……」 「毒ですよ」  琅一が銀有を遮るように、重い言葉を発した。 「生で食べなくて良かった。あれは普通の人間の身体には、強すぎます。飲んだものが、たまたま年数が経っていたから、薬になった。でも本来は毒なのです。だから色々な工程を経て……」 「御託はいい! とにかく効いたのだからな!」  銀有は琅一が諭したのを、負け惜しみと取ったようだった。 「あれは本来、私のものだ。返してもらおう」 「無理です」 「無理? なぜだ!」 「そのままでは毒になるばかりです。あれを売ろうと考えているのなら、やめた方がいい。絶対に」  強く言い募る琅一の言葉に、銀有は歯噛みした。 「……二円にどれだけの価値があるか、お前にはわからないだろう。その上、薬の上前をはねられたのでは、たまったものではない……!」  だからと言って、五十銭にまけろと言うのは、さすがに言い過ぎだとしろは思った。商売のことはわからないが、少なくともしろにとっては、琅一はもう欠かせない人になっていた。 「銀有さんの願いは、しろさんが元気になることだったのでは?」 「それはそうだ! しかし生きていくには金がいる! もし拒むのなら、他の人間を探し出し、しろの伽子にしてもいい。お前でなくとも」 「無駄です。たぶん。俺でないと駄目だと……」 「一日に二円も取っておきながら、それが私に利く口か!」  銀有は琅一が折れないことに、募らせた苛立ちを爆発させた。 「知っているぞ、お前がしろから字を習っていることを……! こんな学のない人間に、大事な息子を預ける身にもなってみろ! お前の価値など本来ならば、五十銭、いや、五銭でも多すぎる……っ!」 「やめてくれ、父上!」  銀有が琅一を愚弄するのを聞いていたしろは、たまらず障子を開けて父の肩に縋った。 「入ってくるなと言ったはずだぞ、しろ!」 「いやだ! これ以上琅一のことを悪く言うのは止めてください! 確かに字はまだ追いついていないけれど、算術なら誰にも負けない! おれだってかなわない! 父上だって、琅一にはかなわないよ……! だから……」  やめてください、と継ごうとしたその言葉尻を、銀有に捕らえられ、言われる。 「お前は庇護してもらっておいて、実の親の私に楯つくのかっ!」 「っ……」  しろは息を呑んだ。 「ひとりで生きていけるようになったのなら、お前の話も聞こう。だが、今はどうだ。ひとりでなど、生きてゆけない身体で何を偉そうなことを言っている。第一、これはお前のためでもあるのだぞ、しろ」  噛んで含めるような銀有の言葉に、言い返すことができない。だが、琅一に価値があることだけは、確かだとしろは信じた。 「そんな、命……」  いらないとは言えない。銀有がどれほど酷い言葉を投げつけてきたとしても、浴びるような愛情を、過剰すぎるほどに受けて育ったことに、変わりはないからだ。しろは今ほど自分の虚弱さを呪ったことはなかった。畳に跡がつくほど白い拳を握りしめ、どうにか銀有に気持ちを伝えたくて言葉を探したが、出てこない。 「お話はわかりました」  その時、悔しさに沈黙したしろの間を引き取るようにして、琅一が口を開いた。 「俺の賃金の件については、師匠がきた時に改めて相談、それまでは半分の一円を支払い、あとの一円は銀有さんの手元に。花びらはしろさんの分である三枚以上のもので、今手元にあるものの中から半分はお譲りします。新たに出た分は、折半でどうでしょう? 割って奇数の場合は余剰分は差し上げます」  話をおさめようとして、しろのために琅一が折れてくれたことは明白だった。銀有の欲を募らせた顔を見た琅一は、さらに銀有が口を開く前に、こう釘を刺した。 「この条件が呑めなければ、俺はこの郷を出ます。急ぎ、お師匠様にこの件を相談しなければなりませんので」  琅一の顔を見て、これ以上たかるのは無理だと思ったのだろう。銀有は頷いた。 「よ、よかろう。そういうことなら、それでよい」 「よろしくお願いいたします」  去っていく銀有に、琅一は静かに頭を下げた。父の銀有が去ったあと、しろは畳に手をついて震えた。こほっと咳が出る。 「……しろさん、風邪を引くから、布団に横になった方がいい」  言うと、琅一はしろのために布団を敷いて、掛布をめくってくれた。 「ごめん……」  かける言葉が見つからなくて、しろが静かに詫びると、琅一は少し肩をすくめた。 「気にしなくていい。慣れている」  ──慣れている。  そんな哀しい言葉を吐かないでほしい。  琅一には価値がある。しろを救ってくれた恩人だ。それを銀有が中傷し、認めようとしないことが、哀しかった。琅一が、憤らないことが悔しかった。 (父のあの言葉は、おれが吐かせたも同然だ……)  しろはその夜、何年かぶりに泣いた。  琅一がしろに触れると、涙までがぽろぽろと、小さな花びらになった。

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