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第11話
梅雨がきた。
「何だ、今日はこれっぽっちか。伽子は何をしていたんだ? ちゃんと仕事をしてもらわねば、困るぞ。こちらは給金を払っているんだからな」
銀有の言葉による琅一への攻撃は、明らかにしろを弱らせるのに一役買っていた。花びらを出すしろに対して暴力を働くことこそなかったが、嫌味が加速するに従い、銀有自身も酷くやつれてしまっていた。
しばらく治っていたらしき胃弱も、再び痛み出したようで、それに加えて金を借りているらしき隣郷の高利貸しが、郷で悪さをした後始末もせねばならないらしく、そんな店にはいい噂もなく、贔屓にしていた客も、寄り付こうとしなくなっていった。
時を同じくし、白い花びらを混ぜた煎じ薬の噂が郷周辺に広まりはじめたが、蓋を開けてみれば粗悪品で、そのせいで身体を壊したという者まで出る始末で、銀有はそのもみ消しにも必死にならざるをえないようだった。
どうやら銀有が高利貸しと結んで悪さをしているらしい、という話や、多額の負債の返済を迫られているらしい、という噂は、しろの耳にまで入ってきていた。
「小鳥遊さんところの大旦那は、気がふれてしまったという噂だよ」
そんな囁きが口々に出回るありさまだった。
銀有の変わってしまったところを見るにつけ、しろの胸は痛んだ。自分がこんな病気を患ったから、父は苦しんでいるのだ。もしも健康体であったなら、もしくは、死産であったなら──自分が母の代わりに死んでいたなら、銀有はもっと幸せな人生を送れていたのではないか、と思い詰め、咳をする日が多くなった。
一之介が郷を再訪したのは、そんな折だった。ひとつには、琅一が出した銀有の窮状を訴える手紙のせいでもあるらしかった。
「琅一に字を教えてくれて、ありがとう、しろさん」
夜遅くに到着するなり、まっすぐしろのところへきて、頭を下げて礼を言われ、しろはかえって恐縮してしまった。
「そんな、俺の方こそ、助けてもらって」
むしろ琅一がいなければ、今、生きていられたかどうか。命の恩人をしろに与えてくれた一之介に、しろは感謝の想いしかなかった。
その日は珍しく、銀有、一之介、しろ、琅一の四人で膳を囲んだ。
一之介がいると、離れが明るくなる気がしたしろは、何とか起きて食事を摂ることができて、嬉しかった。
だが、酒が入り、座が少し砕けたものになると、琅一の貸与料に関する突っ込んだ話し合いになった。しろは席を外すべきだと思ったが、場の流れが急に変わったので、言い出す機会を失してしまった。
「あんたは私を騙していた!」
銀有が叱責しても、一之介は「何のことかわかりかねます」と静かに杯を空けるだけだった。相当酒が入った頃、銀有は懐に呑んでいた匕首を見せると、一之介に脅迫まがいの言葉を投げつけた。
「あれだけの利を生むものを、どうして所有者の私から取り上げようとする? 後ろ暗いところがあったからであろう。何処の馬の骨とも知れぬ者に、二円も払えぬわ。しろは私の息子だ。純情なのを誑かされて、可哀想に今は琅一がいないとまともに外にも出られない。だが私にその手は通用しない。お前たちにしろはやらん! 五十銭、いや、五銭なら払える。だがそれ以上は出せない。琅一がいなければしろは死ぬのではないか? 足元を見ているのはどちらだ!」
しろの命を人質に取るような言葉を吐かれ、しろは俯いて箸を置いた。
「しろさん……」
見かねた琅一がしろの身体が傾ぐのを支えると、一之介は銀有を窘めようと口を開いた。
「銀有どの、この話はしろさんに聞かせるべきではない。明日、酒が抜けたのちに、あらためて話し合いを……」
言って、一之介が杖を取ると、銀有はただでさえ青黒かった顔を真っ赤に染め、匕首を鞘から抜き放った。
「その手には乗らん……ッ!」
ぶるぶると震えた手で、匕首の柄を掴んだ。
「どうせしろを連れていくと言うのであろう! こんな田舎では十分な治療ができぬと言うのであろう! しろの命を人質に取っているのは、貴様の方ではないか……!」
「銀有どの、その物騒なものを仕舞いなされ」
「うるさい! うるさいッ!」
銀有が一之介に向かって膝立ちになると、酔って覚束なくなった足元にある膳に躓いた。前のめりに倒れかかったところを、一之介がとっさに支えた時、めり、と嫌な音がした。
「う……っ」
二人分の膳がぶちまけられ、一之介が銀有を押し返した。
「お師匠様……っ!」
どすんと音がして、銀有が尻餅をつく。その手に握られた匕首の刀身の部分に赤く血糊が付いているのを見た琅一は、しろを座布団の上に座らせると、一之介のもとへ飛んでいった。
「違う、私じゃない! こいつが動いたからだ! 杖を……それは隠し杖であろう! 私を斬ろうとしたんだ、正当防衛だ! け、警察に言えばすぐにわかる……ッ」
振り返った琅一の目に込められた憎悪に狼狽した銀有は、慌てて匕首を手放し、後方へといざった。震えながら「警察、警察……っ」と四つん這いになり離れをまろび出るのを見たしろは、銀有がしでかしたことの重大さを悟り、一之介の前へ駆け寄った。
「早くお医者に……っ、こほっ!」
しろが近寄る頃には、鈍色の帯に血痕がじわりじわりと広がっていた。急いで誰かを呼びにいこうと腰を上げたその袖を、一之介が止める。
「しろさん……」
脂汗を流し、琅一に支えられた一之介は、腹に広がる血痕を隠そうともしなかった。
「我々は今宵、ここを去ります。しろさん、あなたを……銀有さんの言ったとおり、我々は連れて行きたいと思っていたのです。一緒にくるつもりはありませんか。このままでは、あなたが……」
「それより、今は血を止めないと……っ」
一之介は、刺されたのが帯の上で良かった、と言った。
「大丈夫。大丈夫です。あなたの父上を、殺人者にはさせない……」
琅一の肩を借りて起き上がった銀有は、「おや、お前、背が伸びたね?」と呟き、しろに向き直った。
「今決められなくとも、いずれこの琅一があなたを迎えにくるでしょう。しかし、今の状況を鑑みると、このままにはしておけない。一緒にきませんか、しろさん」
甘美な誘惑だった。だが、あんな風になった父を置いて、家を出て行くなどできない。そもそも歩いて山を降りる体力が残っていないだろうし、一之介の傷は浅いものではない。しろにかかずらっているうちに手遅れになったらと思うと、とても頷ける状況ではなかった。
「ごめんなさい、父を置いていくことは、おれには……。どうぞ、道中、お気をつけて」
「しろさん……」
「お二人とも、ご壮健で。どうぞ」
しろの言葉と表情に、一之介は苦しげな目をして「わかりました」と言った。
「では、一旦はお別れです。再び逢うことのできる日まで、どうか息災でお過ごしください。琅一、別れの挨拶を」
一之介に促されると、琅一は無言でしろの身体を抱きしめた。頬に頬をくっつけ、くちづけされ、離された肌に白い花が散る。
「さようなら、琅一。元気で……」
別れが終わると、琅一は、一之介を支えながら、どこまで続くとも知れぬ闇の中へと消えていった。
涙で闇の奥が見えない。
永訣の時がきたのだと、しろは悟った。
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