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第18話
夜になると、布団がひと揃えしかないことにしろは気づいた。
「琅一? おれ、話があるんだ。座ってくれないか」
父の銀有がどうなったのか、琅一に尋ねていなかった。旅の途中はそういう雰囲気でなかったこともあり黙っていたが、琅一とここで暮らすと決めた以上、ともに眠る前にはっきりさせておきたかった。しろが琅一に向き直ると、琅一もまたしろに向き直るように座った。
「その……」
切り出そうとして息を吸った時、ふと琅一の右手が上がった。驚いて肩をすくめ、目を閉じると、琅一の指先がしろの首筋に付いた引っかき傷に接着し、なぞった。撫でられ、甘い情動が湧く。銀有によって付けられた傷は思ったよりも深く、だいぶ薄くはなったが、まだ時々疼いた。
「……ここまでするとは思わなかった。よく耐えたな、しろ」
「ろ、いち……」
傷跡をなぞられると、ぴりぴりした痛みのほかに、甘美な感覚が背骨を這い上がってくる。得体の知れない衝動にしろが身をよじると、琅一は「それで、話って?」と促した。
「あ、その……父上のこと、なんだけど」
郷を出る時、炎を背負ってしろの元へ戻ってきた琅一は、出逢った頃と同じ昏い目をしていた。あの夜、琅一が何をしたのかを、しろは聞かねばならなかった。それが、たとえどんなことであっても、琅一ひとりに背負わせるわけにはいかない。
だが、琅一は驚くこともなく、淡々と言葉を紡いだ。
「銀有さんなら、俺が楽にしてきた」
「え……?」
「これを使った」
青い顔で、懐から匕首を取り出し、しろの手に握らせる。
「こ、っれ……」
ずしりと重さのある、蒔絵が施された美しい工芸品。だがよく見ると、血痕らしきものが付着している。しろが顔を上げると、琅一はこともなげに言った。
「楽にして、離れに火を放ってきた。証拠を消し、追っ手がかからないように」
「それ、どう、いう……」
問いながら、しろは背筋が冷えるのを感じた。
「銀有さんには花びらの中毒症状が濃く出ていた。おそらくあの花びらを飲むことを、日常的にしていたのだろう。あれの中毒になると、人格が荒廃して人に当たりだす。次第に花びら以外のことが、考えられなくなるんだ。しろ以外には毒だと散々言ったのだが、聞いてもらえなくて残念だ」
「──っ」
聞く前から、返答はわかっていた気がした。だが、それを琅一の口から直に聞くのは、想像を巡らせているだけだった頃よりも、ずっと衝撃が強かった。
「た、すけ……ること、とか……」
胸の内を得体の知れない渦が巻いて、しろは喘いだ。
「短期間ならばいいが、長期間服用を続ければ、いずれ心臓が止まる。あれは危険なものなんだ。持ち主の身体を守るためのものだから」
「だからって……!」
「銀有さんは、虫の息だった。助からないと判断した」
「っ」
息を呑んだしろに、琅一は追い討ちをかけるように続けた。
「しろ。俺が憎いか?」
何も感じていないかのような、無情な声。でもしろは、琅一の手の暖かさを知っている。琅一の背中の逞しさを、笑うと綻ぶ顔を、布団に入ると甘えるように絡めてくる四肢の存在を、時折、寂しげに遠くを見る目を、知ってしまっている。
(おれが殺したも同然だ)
しろは胸が張り裂けそうで、握った拳が白くなるほど力を込めた。あんなに叱責されて毎日つらかったのに、今、思い出すのは、しろを可愛がってくれた優しかった頃の銀有ばかりだ。
「おれの、せいだ……」
しろが呻くと、それまで無機質だった琅一の声がわずかに色づいた。
「お前のせいじゃない、俺がやったんだ。俺のせいだ」
必死に取り繕うように、しろに言い聞かせる。でも、琅一だけのせいであるはずがなかった。それとも琅一は、やはり一之介の死を銀有のせいだと恨んでいるのだろうか。だとすれば、やはりそれも、しろのせいだと言えた。
胸が苦しくて、背中を曲げた。晩年は見ていられないほど変わってしまったが、それでも銀有はしろの父だった。同様に、一之介と琅一に、命を救い出されたのも事実だった。
「……俺を殺すか?」
しろが顔を上げると、真摯な声で琅一が問うた。
「え……?」
「父親の仇だ」
琅一はしろの匕首を握ったままの手を上からむんずと掴まえ、鞘を抜き去った。剥き身の刀身の先を、自分の心臓のあるあたりに垂直に当てる。
「刺してかまわない。どうせ天涯孤独の身だ」
「琅一……っ?」
琅一は、両手でもって、匕首を握るしろの手を握り、導いた。力が強すぎて、ちょっと抵抗しただけではびくともしない琅一の覚悟に、しろは怖気づく。
「ちょっ、ゃ、ろ……っ」
慌てて腕を引こうとするが、琅一の両手は容易には外れない。
「お前の憎い仇だ。殺してみろ。体重をかけて押し込むんだ。場所は把握できている。ひと息にやれば苦しむこともない。あとは……俺のしたことを警察に言って、父親の敵討ちだと言えばいい」
「ゃ」
言うなり、手をぐいと引かれて、しろは畳に崩れた。同時に琅一の着物の胸のあたりに刃が沈み、着物が切り裂かれる。
「ひっ……」
「しっかり握れ、しろ」
「ゃ……っ」
しろが拒めど琅一の力は強く、びくともしなかった。琅一の纏っている着物の生地が、嫌な音を立てて刃を吸い込もうとしていた。
(切れる)
その事実に、しろはかつてないほどに狼狽し、いつしか刃を刺そうとする琅一と、それを拒み引こうとするしろの、力くらべの揉み合いになった。
「いやだ……っ!」
暴れるように力いっぱい腕を引くと、琅一の拘束からやっと逃れられた。ぱらぱらと白い花びらが咲き、匕首が剥き身のまま畳み転がる。しろは息を弾ませ、顔をくしゃくしゃにして、手に残る感触に鳥肌を立てた。
「いじわる……っ」
視界が滲み、琅一を睨みつける。
初めて琅一のことを、本気で憎いと感じた。
だのに琅一は感情を顔に表すことなく、宥めるようにしろの名を呼んだ。
「しろ」
甘えるな、としろは口の中で呟いた。
「おれにそんなことできないって、知ってるくせにっ……。お、おれのせいにして、琅一は死にたいのかよ……っ。そんなに後悔してるなら、おれのことなんて忘れて、ずっと薬屋やってれば良かったんだ……! なのに、わざわざ郷にまできて、っおれを救ってくれたのは琅一じゃないか! どうして今さらそんな、いじわるするんだよ……っ」
ぽろぽろと涙があふれ、花びらになって畳の上に落ちる。こんな立派な薬屋で店主と呼ばれ、仲間に囲まれ、健やかに生きられるはずなのに、琅一はしろに関わったばっかりに、殺人者として死にたがっている。そんなのは、どう考えても間違っているし、理解できない。
「しろ、俺は罪人なんだ」
琅一が苦しげに呟いた。
「俺にだって良心はある。お前に殺されるなら本望だ。お前の大事なものを壊してしまったことを、すまないと……」
しろは瞬間、視界が白く振れるほど心乱れるのを感じた。
「独りで背負い込むなんて、琅一は、ずるい……っ! 琅一が罪に問われるなら、おれも一緒だ……っ。虫の息だったんだろ? おれが、父上を突き飛ばしたせいで……っ。それに、琅一のお師匠様を父上が刺したことだって、あれだって立派な罪じゃないか! なのに琅一だけが裁かれるのなんて、おかしい……っ。父上だって、おれの花びらを飲まなきゃ良かったのに、なのに、おれは……おれの身体は……っ」
視界が滲んで怒り続けられなくなる。
ただ哀しかった。
一之介も、父、銀有も。琅一も。そしてしろ自身も。
「泣くな」
戸惑いを含んで伸ばされた琅一の手を掴むと、思わず本音が漏れた。
「おれを、ひとりにしないでくれよ……っ」
しろを見た琅一は、はっとしたような、納得がいかないような、複雑な表情をした。その手の温もりに触れ、しろが願うことはひとつだけだった。
「おれを連れてきたのは琅一だろ? なのに、罪人だの、ひとりで死ぬのって何だよっ、そんなの自分勝手じゃないか! おれにだってたくさん悪いところがあるのに……っ。もしも、って考えない日はないのに……っ」
「遅かれ早かれ、ああなることはわかっていた」
「そういうことを言うな!」
琅一が唆したせいで銀有が凶行に及んだのだとしても、原因をつくったのはしろだ。父の前で胃潰瘍の特効薬を望んだりしなければ、銀有だって迂闊に花びらを飲もうなどという発想は出てこなかったはずだ。しろがいなければ今も銀有は生きていられたかもしれない。一之介が銀有によって傷つけられることだって、起こり得なかったはずだ。
だが琅一は、しろを慰める代わりに、情の薄い声で言った。
「本当のことだ。だからお前には、すまないことをしたと思っている。……悪かった」
「謝るな……っ、おれも、謝らないから……」
しゃくりあげるしろを、琅一は柔らかく抱いた。気遣わしげな様子に、心を打たれる。野生の獣が懐いているような感じがして、しろは琅一の背に腕を回した。
「琅一。人生は、変えられるものなんだ。琅一はおれを連れ出すことで、それを教えてくれた。琅一は、おれを救ってくれた恩人だ……。だから、そんな風に自分のことを貶めないでくれ。誓ってくれ。もう言わないって……」
「……わかった」
まるでどちらが抱かれている方かわからなくなった頃、髪を撫でられて、しろは甘えるように顔を琅一の肩に擦り付けた。不思議な気分だった。琅一といると、懐かしいような、それでいて、しろにそんな感情があったのかと思うような、初めて感じる甘さのようなものが心に満ちる。
しばらくそうしていたあとで、不意に琅一は懐から何かを取り出した。
「しろに、これを渡しておく。何があっても大丈夫なように」
「これ……?」
以前、口に含まされたことのある、小さな木箱に入った白い軟膏だった。
「砂糖と蜂蜜で練り固めた花びらの抽出物だ。俺ももうひとつ持っているから、これはお前に預ける。気持ちが沈んだり、調子が悪くなったら、これを舐めるんだ。楽になる」
「おれ、以外には、使えないって……」
「ああ。しろにしか使えない。お師匠様が命を賭して形にしたものだ。新しく建てた薬房で、なるべく純度の高いものをつくろうと研究を重ねたんだ。一旦、目処が立ってしろを迎えに行ったが、銀有さんに拒まれて、計画が頓挫した」
「それって……」
顔を上げたしろの疑問を肯定するように琅一は頷いた。
「俺とお師匠様がしろをここへ連れてこようとしていたのは事実だ。でもそれは研究成果を独り占めするためじゃない。しろが生きやすい最良の方法を考えるためには、どうしても花びらより純度の高い抽出物が必要だった。銀有さんには納得のいかないことだったかもしれないが、原材料費は薬が完成したら、ちゃんと定期的に支払うつもりでいた。証文もある」
琅一は言うと、懐からその証文を出した。確かに銀有の署名があり、割印も押されている。間違いなかった。
「いずれ郷から出すことを、銀有さんはしろに話すと言っていたが、きっと何も聞いていなかったんだろ? 途中で気が変わったのかもしれない。今となっては、わからないが」
「そうだったのか……」
琅一の言うとおり、しろは何も知らされていなかった。ずっとあの郷で、二度と逢えないだろう琅一を待ちながら、朽ち果ててゆく覚悟をしていたのだ。
「わかってくれとは言わない、しろ。俺はお師匠様の遺志を継いでここまでやってきた。だが、もしも嫌なら新しく増設した薬房は取り潰すし、花びらの研究もやめる。俺と一緒にいたくないなら、郷に送っていくこともできる。お前の望みどうりにする。……どうする?」
「どう、って」
難しいことはわからなかったが、薬房を潰したら、店が立ちいかなくならないのだろうか。それに、せっかくここまで成果が出ている研究をやめてしまうのはもったいない。
琅一は必要最小限のことしか話さないから、何が正解なのか、しろには判断できないことが多い。でも、ひとつだけ指針となることがあった。
「琅一は、どうしたいんだ……?」
「俺は……」
琅一は言い淀んだあとで、はっきりと口にした。
「許されるなら、しろと一緒にいたい」
「うん……」
その言葉に、しろはすとんと納得した。
旅の途中の妓楼で「姐さん」が言っていたのは、きっとこういうことだったのだ。琅一の言葉が、しろには宝物のように嬉しかった。
「おれも同じだ。……手を、握ってくれないか、琅一。たまには、その……」
ここへくるまでの間、琅一は、しろとの間に無闇に花びらが生成されるのを警戒し、手袋をしていた。琅一は、しろの言葉を承知して、静かにその手を取った。かさりと音がして、白い花があふれんばかりに散り出した。
布団に入ったしろと同衾した琅一は、もぞもぞとしばらく動いていたかと思うと、やがて下帯ひとつになり、しろに脚を絡めてきた。
(──あの時、みたいだ)
甘える子どもみたいに思えて、しろは琅一の手をぎゅっと握ると、眠りに落ちていった。
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