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第19話

 強行軍が祟ったのか、しろはしばらく体調を崩し、咳をした。  しかし一週間もすると、琅一にもらった練り薬のおかげもあり、少しずつ元気になっていった。  元気になると、琅一と床が別になったのが、しろは密かに面白くなかった。 「どうして別々に寝るんだ? おれ、もしかして寝相悪い?」  琅一といる時間は、薬屋の営業時間の都合上、明らかに減ったが、その代わりに様々な書物が届くようになった。しろは本を開き、貪るように読んだ。店が終わったあとにいくつか妓楼を周り、御用聞きのような仕事をしている琅一が帰ってくるのは、いつも夜明け近くである。 「朝、掃除が面倒だろ」 「おれがするのに……」  妓楼街の薬屋には、昼も夜もなく客が駆け込んでくる。時には琅一が対応を迫られることもある。居候で文句を言えないしろは、できることはなるべく自分でやったが、琅一が布団を二つ並べることだけには、納得いく説明が欲しかった。 「とにかく、手は繋いでやるから、大人しく眠れ」 「うん……」  疲れた様子で視線を外す琅一に、それ以上追求できなくなる。不承不承頷いたしろの髪を、琅一は代わりとばかりによく触った。それが心地よくて、布団に落ちかかる花びらを見ながら、その日は丸くなって眠りについた。  しばらく平和な日々が続き、ある時、しろは店の者が話しているのを聞いてしまった。 「最近お盛んだよな、うちの店主」  それは、御膳を返そうと、母屋の台所へ行った時のことだった。 「帰ってきてから別人みたいに色の味を覚えちまったもんなあ」 「まだ若いってのに、いくら何でも通いが過ぎやしないか?」 「若いからだろ。俺なんかもう、二日続けてなんて無理だよ」  話は琅一の妓楼通いのことだった。どうやら仕事というのはしろの思い違いだったらしい。立ち聞きしてしまったしろは、胸の奥がざわつくのを感じ、急いで御膳を置いて返すと、離れに取って返した。  その日はなかなか寝付くことができず、明け方になり、ようやくうとうとしかかったところへ琅一が帰ってきた。 「仕事じゃなかったんだな」  少し眠そうな顔をした琅一が、冷えた布団に入る気配を感じたしろは、目が覚めてしまい、布団の中から沈んだ声を出した。 「何が?」 「妓楼通いが、噂になってる」 「そうか」  しろの言葉に相槌だけ打って、琅一は弁解ひとつしなかった。しろはどうしてこんなに動揺しているのだろうと胸の奥のざわめきを聞き、思い切って寝返りを打った。 「何でそんなに通うんだよ。身代もばかにならないって言われてるぞ」 「何で?」  振り返ったしろを、琅一は光る目で見た。 「わかるだろ、それぐらい」 「わ、わからないよ……。だから訊いてるんじゃないか」  琅一が手を握る以外に、しろに触れなくなって、もう何日が経つだろう。花びらは滞りなくあふれるが、なぜだかとても虚しく感じてしまう。 「琅一は触ってくれないし、布団の中で、おれがどれだけ寂しいか、知らないだろ。……それとも、おれじゃ役不足かよ?」  拗ねて聞くと「役不足だな」と、さらりと流される。 「……っ、そう、かよ……」  しろはかろうじて返事をしたが、心の中は千々に乱れていた。女性じゃないしろには、琅一が何か欲望を抱いても、慰撫することができない。わかってはいたが、はっきり言われると落ち込むな、としろは思った。女に生まれていたら、琅一ともっと一緒にいられたかもしれない、と望んでしまう。それでも、しろは何か縋るものを探すように、言葉を継いだ。 「おれにできることがあれば……。琅一、何で好色になんかなったんだよ……」  しろでは琅一の力になれない。その事実以上に、知らない琅一の側面を知るたびに、しろはどこか落ち着かない気持ちになる。  だが、琅一が沈黙すると、もう会話は続かなかった。  俯いたしろは、せめて泣くまいとした。唇を噛んで我慢していると、やがて玄関の方から調子外れに明るい男の声が聞こえてきた。 「おうい、琅一、開けてくれ。いるんだろう?」  こんな夜更けに、と思う間もなく、戸を叩き続ける音に、琅一が対応に出る。  すると、「元気か? 琅一」と飄々とした声の、洋装姿の背の高い優男がひとり、琅一に伴われて離れの座敷へ顔を見せた。  焦げ茶色の三つ揃えを着て、西洋風の帽子を頭から持ち上げた男は、三十歳少し手前ぐらいの、やけに明るい顔をしていた。癖っ毛をくるりと後ろへ流し、勝手知ったる様子でしろのいる部屋へ入ってきた男は、床に半身を起こしたしろを見て「おや?」と目を瞠った。 「こりゃあ傾国の美女さんだ。いやぁ、参った。美しいお嬢さんだなぁ」  男は大袈裟な身振りで驚いて、しろと琅一の布団の敷いてある隙間に胡座をかいた。 「岩永先生」 「送った本は届いたか? 適当に見繕ったんだが」 「大変ためになりました。ありがとうございます」 「うんうん。そりゃ良かった」 「先生、いつ神戸からお戻りになられたんですか?」  一瞬、琅一がものすごく嫌そうな表情をしたように見えたが、すぐにいつもの無表情になったので、しろが目をぱちくりさせていると、岩永と呼ばれた青年は顎に手を当て、考える素振りでしろを観察した。 「さっき。琅一が渋りまくるからこっちからきてやったんだぞ。感謝したまえ」 「琅一? この方は……?」  じろじろと品定めされる岩永の視線に晒されたしろが、戸惑いがちに尋ねる。  すると琅一は仕方ないといった表情で溜め息とともに、青年を紹介した。 「この人は岩永秋人先生と言って、投資をしている私小説家だ」 「小説家?」 「そこは投資家ってことにしておいてくれよ。嘘だけど」  言って、岩永が混ぜっ返す。すると琅一は今度こそ、露骨に嫌そうな顔をした。と言っても、子供っぽい地が出たような表情で、岩永がわざと絡んでいるのが何となくわかる。 「いやぁ、よろしく。きみ、しろさんだね? お噂はかねがね拝聴していたが、こんな美人さんだったなんて」 「先生、しろが怯えますから、あまり寄らないでもらえませんか。しろ、岩永先生は、薬房を建ててくださった、お師匠様の友人だった人なんだ」 「──死してなお、あの人は友のままだよ、琅一」  そう岩永は囁くような声で混ぜ返した。 「それに友だから建てたんじゃない。利益が見込めると思ったからさ。それにしても、こんな器量好しとはねえ。いや、想像以上だ。これは目の保養になるねぇ」 「岩永先生、こちらが小鳥遊しろです」  あらためて琅一が言うと、岩永は「うん、よろしく」と言うなり、しろの浴衣の胸部分に人差し指を入れ、肌をちらりと露出させた。 「あ、あの……っ」 「……男か。僕の守備範囲外だなぁ、残念。でもこりゃ、きみが参るのもわかるねぇ」  岩永の手癖の悪い手をぱちりと叩いたのは琅一だった。 「やめてやってください」 「うん。よろしく、しろさん」 「よ、よろしくお願いします……?」  岩永は、叩かれた手を、今度はしろに向かって差し出した。握るものなのだろうと思い、しろが恐るおそる触れると、ぐっと力を込めて握り返される。岩永の手は、琅一の手と同じぐらい大きくて、乾いていて暖かかった。 「しかし花びらは出ないねえ……。やっぱり琅一がいいかい? まあそう逃げなさんな。僕が相手じゃ不満かな? 優しくしてやるのに。琅一よりも僕の方がずっといいぞ。金も持っているし、大人だし」  言いながら手をぐいぐいと引かれ、守備範囲外と言いつつ口説かれているのだとやっと悟るが、身を引こうとすると、その手を岩永が引く。引き合いになったところをやっと琅一が分けてくれた。 「岩永先生、しろは免疫がないので、ふざけるのはそれぐらいにしてもらえませんか」  しどろもどろになったしろをかばうように、琅一が苛立ちを露わにした声で言った。 「ははっ、そう怖い顔をするなよ。殺されそうだから、その前に帰るとしよう。琅一、この子のお披露目はまたあらためてしてくれたまえ。さらばだ、しろさん」  岩永は琅一にそれだけ言うと、ふらりと手を挙げて帰っていった。

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