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第31話

 やっと熱が下がったしろが久々に母屋へ顔を出すと、琅一は朝から岩永とともに取引先を回る日で、家を空けていた。  しろは、琅一にもらった練り薬の箱を開けて、残り少なくなってきた白い薬をひとすくい口に入れた。最近、少ないながらも店先に立つことができてきたので、その時は験担ぎとして琅一にもらった練り薬を舐めることにしていた。  薬の調合はまだ難しいが、会計や月賦の計算はまかせてもらえるようになった。少しでも店の役に立てている実感が、ひいては琅一のためになっているはずで、しろにとっては嬉しいものだった。  だが、その日、使いに出ていた従業員のひとりが急いで店に駆け込んでくるなり叫んだ。 「おい! 銀行が大変だぞ!」  その青年は、長年薬屋で働いている者で、走って帰ってきたらしく、息を切らせて水を所望した。そして、渡された茶を一気に飲み干すと、真っ青になって怒鳴った。 「や、っやばいことになってるぞ……! 店主はっ? 早いところ知らせないと、飯の食い上げどころじゃ済まないかもしれない!」  青年が辺りを見回し、まくし立てるのを聞いたしろは、騒ぎを聞きつけ集まってきた店の男たちに混じり、何があったのかを聞こうとした。 「取り付け騒ぎだ! 銀行の周りは預金引き出しに押しかける人であふれ返ってるって話だ。個人預金の引き出しは当面停止、融資も貸し剥がしに傾いているらしい。うちみたいな小さな店にそれが波及したらどうなるか……っ。こんな時に悠長に店を開けてて大丈夫なのかっ?」  そうして周囲の顔ぶれを見回すと、最後にしろに目をとめた。 「とにかく店主がいないんじゃ話に……しろさん、寝てなきゃ駄目でしょう!」 「落ち着いて。おれなら平気です。琅一なら岩永先生と一緒に、取引先回りに出かけていますから、銀行へも寄っているはずです。それより、詳しく話してくれませんか?」  店番や薬房で働いている男たちも、帰ってきた青年の声に不安を隠せない様子で浮き足立ちはじめた。 「関西の方の銀行が取引停止になったってんで、その煽りを受けて、愛知やら神戸やら、こっちの銀行へもそれが波及してるらしいんです! 実際に銀行へ行ってみたけれど、閉まっちまってて金が引き出せないってんで、妓楼街の外は大変な騒ぎですよ! 当面の金が工面できなけりゃ、俺たち市民は生きていけないし、うちでも最近、新しい薬房を建てたばかりじゃないですか……。金が回らないんじゃ、商売にならない。店どころか、下手すりゃ、この妓楼街だって、そうなりゃどうなるか……っ」  青年が言葉を切ると、どうしようか、どうしたら、と動揺が波及してゆくのがわかった。彼らは一様に安心を求めているのだが、しろには経営の決定権がない。彼らを励ますことぐらいしか、してやれることがないのが口惜しかった。  身振り手振りを交えて話す青年の話を咀嚼したしろは、小さく深呼吸すると言った。 「これは提案ですが、琅一が帰ってくるまでは、普通に商売した方がいいでしょう」 「でもこんな時に……!」 「こんな時だからです。無理に客からの返済を迫ったり、売り渋りはしない方がいいです」 「だけど、店が潰れたら……っ」 「大丈夫です」  しろは自分も不安で仕方ない中、どうにか皆を落ち着かせようとして、微笑んだ。 「取り付け騒ぎは琅一も知っているだろうし、数日前に岩永先生がいらしてたでしょう? その時に少し話していましたから、対策は取っているはずですし、そういうことなら琅一も、すぐに店へ戻ってくるはずです。それまでは、我慢しましょう。きっと大丈夫なはずですから」  従業員たちを説得する十分な材料がないことに力不足を感じながら、しろは彼らに言って聞かせた。もしも取り付け騒ぎが本当なら、個人が騒いだところで大勢が変わることはない。彼らとてそれがわからぬはずはなく、きっと突然入ってきた情報に浮き足立っているだけなのだ。  しろの言葉に、どうすべきか天秤の上で迷っている従業員たちの表情を見て、しろも迷いながら、もう一押し、何かがあれば、と思案していた時だった。 「電報です!」  自転車を店先に立てかけ、入ってきた郵便局員から、しろは電報を受け取った。 「ご苦労さまです」  差出人が琅一だとわかると、男たちが我先にとその内容を知るべくしろを取り巻いた。 「……『ヘイジノゴトクセヨ』」 「ヘイジ……平時の如くせよ、か?」 「これは……、わかってると思っていいんだよな?」 「良かった……! 大丈夫そうだ!」 「大先生がお亡くなりになった時もそうだった! 今度だって大丈夫だ!」 「そうだな! 岩永先生だって付いてるんだからな!」  店の者たちがやっと緩んだのを見たしろは、胸をなで下ろしてその電報を握りしめた。琅一が出先からいち早く打ってくれたおかげで、どうにかこの場を切り抜けられたことに感謝する。  同時に、まだやることが残っていることに気づいたしろは、帳場を預かっている者に声をかけると、店を飛び出した。 「琅一はすぐに戻ってくるはずです。それまで店を頼みます……!」 「あっ、しろさん!」  どこへ、の声ももどかしく、しろは振り返り、走った。 「岩永先生のお宅へいってきます! 留守をお願いします……!」  今は立ち止まっている時ではなかった。取引先から戻った琅一は、いつも岩永とともに妓楼で協議をしてから戻ってくる。  しろは琅一をつかまえるために駆け出した。

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