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第32話(*)

 案内を請い、妓楼の最上階へ上がると、岩永は在宅だった。ということは、琅一が一緒にいる公算が大きく、相談事を持ちかけるにはちょうどいい機会だとしろは思った。 「先生、しろです。失礼いたします」  しかし、しろが戸を開け中を覗くと、岩永が上半身を乗り出して、尻だけを窓枠に引っ掛けた状態であるのが見えた。 「あっ、先生っ、早まったら駄目です……!」 「わっ!」  しろが慌ててむんずと岩永の腰に取り付き、思いっきり引っ張ると、ずるずると畳の上に二人で倒れ伏した。 「しろさんっ?」 「先生……っ、駄目です、おれたちを残してあの世へいくなんて!」 「へ……?」  もつれ合うようにして倒れた岩永に、しろは必死の形相で迫った。今、岩永に倒れられたら、それこそ全滅してしまう。そうならないための要の役割りが、岩永にはあった。 「自殺は駄目です! 何か策があるはずですから、一緒に考えましょう……!」  しろが迫ると、岩永は恥ずかしそうに頭をかいた。 「いやぁ、実はしろさんにもらったあの貴重な雫を、欄干のところへ落としちゃったものだから……」 「えっ?」 「取ろうとしたところへ、きみがやってきて。いや、すまない」  どうやら岩永は自殺するつもりだったわけではなかったようだ。誤解を謝る岩永に、しろは胸をなで下ろして溜め息をついた。 「何だ……良かった」 「何かごめんよ」 「おれ、てっきり先生が死んじゃうのかと思って……。琅一と、取引先を回るって聞いてたから、いい返事が返ってこなくて、世を儚んで自殺でもしようとしてるんじゃないかって」 「いや、面目無い。でもしろさんに心配されるのは、いいねぇ」  岩永は済まなそうな顔をして頭をかいていた。 「おれの雫だったら、その……い、いくらでもあげますから。だから、そんなもののために危ないことは止してください。それはそうと、先生、銀行が大変なことになっているそうですが……」 「うん。そろそろ騒ぎが大きくなる頃かな。まあ、うちは大丈夫だよ。先に手は打ったから」 「それなら良かった……」 「無傷というわけにはいかないだろうが、とんとんになるようにはしてあるよ。それに、いざとなったら、これもあるしね」  言いながら、岩永は、絹でつくられた小さな巾着に、指先でつまんだ雫を大事そうに入れた。どうやら肌身離さず持ち歩いているらしい。しろは自分が吐き出したものをそういう風に扱われることに慣れていなくて、少しどきどきした。 「それって、おれの、その、あれ、ですよね……?」 「うん。宝石商に見せた時、すごい額を提示されたんだよね」 「それ、がですか?」 「うん。で、売ろうかどうしようか考えてたわけだけど、見ているうちに手が滑って外に落としてしまってね。いやぁ、乗り出したはいいが戻れないんで、助けてもらって良かったよ。で、しろさんは、どうしてここへ?」  岩永の問いかけに、しろは琅一を呼びにきたことを言った。 「そうか。……残念だが彼は一足先に帰ったよ。きみも戻った方がいい。送っていこうか?」 「いえ。それよりも……」  本当は、琅一と岩永と、相談を兼ねて三人で話し合いたいところだったが、場合が場合なので、事後承諾を得ることに決めた。 「先生に、おれの雫を買い取っていただきたく、相談にきました」 「ん……?」  しろが言うと、岩永は茶目っ気のある眸をきらりと輝かせた。琅一は怒るかもしれないが、何がどう転がるかわからない今のような状況では、早く動いた方がいいと判断する。 「これから大変なことになるのでしょう? 店だって無事じゃすまないかもしれない。おれは琅一に店を手放してもらいたくないんです。先生が大丈夫だと言うのなら、今回はきっと大丈夫なのかもしれませんけど、次もまた大丈夫とは限らない。だから、いざという時のために、先生に雫を買っていただくか、売り先を紹介していただきたいのです。もちろん、ただというわけではありません」  岩永にも相応の仲介料を払うことを約束する。どれくらい吹っかけられるかわからなかったが、岩永以外のつてがない以上、足元を見られても交渉するしかなかった。 「それ、僕にも利益があるって話?」 「先ほど、すごい金額を提示されたとおっしゃっていましたよね? 雫を売れば、先生が持っている株の値段が下がっても、損失の補填ができます。薬屋の株も、おれが買い支えます。そのための資金が欲しいんです。お願いします……!」  しばらく岩永は、しろの言葉にじっと耳を傾けていたが、思案の末、ぽつりと言った。 「ふむ。しろさんが株主になるか。それ、面白いね。……ただし条件がある」 「何でしょう?」  おそらくそうくるだろうと思っていたしろが尋ねると、岩永は眸を鋭く光らせた。  商売人の目だ。 「きみが、僕のものになること」 「それは……」  提示された条件は、しろの想定したものの中で、最悪の部類に入るものだった。  しろが言い淀むと、岩永はさらに付け加えた。 「何、ずっとじゃなくていい。今日、今ここで、一度きり。琅一には内緒で。それが条件だ」  岩永はいつになく真面目な顔をした。しろは拳を膝の上で握り、この場にいない琅一のことを考えた。薬屋へ帰ったのなら、しろが離れにいないことを今頃心配しているかもしれない。 「先生……は、おれのことが、好き、なんですか……?」 「いや」 「じゃ、何で?」 「ずっときみを見てきたけれど、昨今珍しいほど一途なんだよね。僕はこのとおり不能の身だが、きみが相手ならどうにかなるんじゃないかと思っている節があってね。一度だけ、この僕に機会をくれるなら考えよう。琅一に訊くのはなしだよ。今ここで、自分で決めてほしい」 「……」  しろは考えた。  今までずっと、琅一に頼りきりだった。郷を出たのも、ここへきたのも、琅一を好きだという感情以外は、琅一のいいようにしてきたつもりだった。だが、岩永が今、決断を要求しているのはしろだ。琅一に黙って岩永と契るような真似をしたら怒られるかもしれなかったが、一度きり我慢をして大金が入るなら、店を潰すよりずっといい、としろは自分に言い聞かせた。 「最後……まで、するんでしょうか?」  尋ねると、岩永は首を傾げて考えたあとで言った。 「うん。できるとわかった時は。駄目だった時は諦めるけどね」 「わかり、ました……。一度だけ、ですよ?」 「うん。膝においで」  しろの答えに、岩永はどこか拍子抜けした表情で膝を示した。しろがすぐ傍へ寄ると、胡座をかいた岩永の膝に横抱きに座らされる。緊張のあまり身体が思うように動かず、岩永を見ると、柔らかな微笑を浮かべられた。 「きみに動いてもらおうかな。わかるね?」 「わ、かり、ます……」  せがまれたとおり、岩永の頬にくちづけた。心臓が早鐘のように打っている。岩永の身体からは白粉の仄かな匂いが立ち込めており、どこに触れられても、しろは何も生成しなかった。いつも岩永の前で乱れる時は、目隠しをされ、琅一がともにいたが、今は全部自分でしなければならないことが、心細かった。  震える指で岩永の上着を脱がし、釦を外してゆく。岩永はしろを手伝いもせず、時々、髪に触れたり、指でその黒髪を梳いたりしていた。 「花びら、出ないねぇ」  まるで重要なことのように呟くと、岩永は、着物の帯をぎこちなく解きはじめたしろを横抱きにして、次の間の布団の上へと下ろした。そのままとん、と押し倒され、岩永がしろの腰を跨ぐ。大きな乾いた暖かい手が、しろの緊張に強張る頬を静かに撫でた。 「やれやれ、怖い子だ。しろさんは。僕をこんなに期待させて」 「先、生……?」 「優しくしてあげるよ。僕がきみに、大人の世界を教えてあげよう」  覆いかぶさってきた岩永に髪を梳かれる。そのまま解けかけた帯をほどかれ、身体をあらためられると、しろは密かに恐慌状態に陥った。岩永のことを嫌いなわけではないはずなのに、触れられると鳥肌が立つ。琅一にされる時と違って、身体を差し出すことに対して、信じられないほど酷く嫌悪感が募った。 「っ……」  息を潜め、思わず岩永から目を逸らした。  唇を噛んで、岩永が触れてくる温もりを必死で我慢する。 (──いやだ、こんな……っ)  この部屋で、琅一に何度となく弄ばれた。琅一との想い出がたくさんある場所だ。その場所で琅一以外に愛撫されると、まるで墨を流し込まれたみたいに汚れていく気がした。  嫌悪感を悟られないために、しろが瞼をきつく閉じた時。  やにわに、ごつ、と大きく鈍い音が響いた。  かと思うと、ごごん、と妓楼の部屋全体が歪にしなった気がした。  驚いて閉じていた目を開けると、岩永も動きを止めた。身体を起こした岩永が振り向いた先に、いつも花魁が出ていく方の、次ぎの間の戸がある。  その戸が静かに開いたかと思うと、琅一が姿を現した。 「ろ……っ?」  しろが目を丸くすると、琅一はずかずかと岩永としろの重なっている布団まで進み出て、岩永の襟首を掴み、しろから遠ざけ、拳を握った。 「待った! 待った待った! 琅! ちょっ、痛い……っ!」  岩永が両手を挙げて白旗を上げる。だが琅一はそんな岩永をずるずると次の間に引っ張っていき、「話が違うでしょう、先生」と聞いたこともないような低い声で言った。 「ちょ、冗談だよ……だからそんなに怒らな……へぶっ!」  平手で軽く岩永を叩いた琅一に、しろは青くなった。が、琅一は岩永をその場に捨てると、一喝した。 「しろには手を出さない約束だったはずだ……っ」  琅一に殴られた岩永は、こりごりだという表情で両手を上げ、降参した。 「もうしない……しないから……勘弁してくれ、琅一」  うなだれた岩永を冷えた目で見た琅一は、ぎろりとしろを振り返った。

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