33 / 40
第33話
「琅、いち……」
なぜここに、と問う間もなく、しなびてしまった岩永を放り出した琅一が、しろを射た。
「布団の上で商談とは、昼間からお盛んなことだな? しろ」
「ちが……っ、ちが、わないけど、違う! おれは……っ」
言い訳を探すしろと目が合うと、だが、琅一の方が先に気まずそうに目を背けた。今度こそ琅一に嫌われたかもしれないと思うと、新しい傷が胸に刻まれ、震えて立てなかった。
「おれは……っ」
琅一はしろに歩み寄ると、着物の裾を合わせて、膝を抱えたしろの頭髪をそっと梳いた。ぽとり、ぽとりと花びらが散るのを目の当たりにすると、琅一は眉をしかめ、手袋をした手で、しろの手首を取った。
「帰るぞ、しろ」
「っ……」
涙があふれるのを必死でこらえているしろを立たせてくれる。こんなことになるなら、叱り飛ばされ殴られでもした方がずっといい、と我が儘なことを思う自分を戒めた。
「岩永先生、失礼します」
琅一が形だけ挨拶をすると、岩永は胡座をかいて大げさに文句を並べた。
「ああ、痛い痛い。弟子に張り手で殴られるなんて、今日の僕は本当に不運だなあ」
「自業自得でしょう」
唸り声に近い声音で岩永を威嚇する琅一の威圧感にさえ、岩永は負けじと言い返した。
「何言ってるの。元はと言えば、きみが悪いんじゃないか。帰った振りして廊下へ潜んで、覗きなんて真似までして、しろさんの本音を探るなんて」
「えっ」
岩永は言うと、しろに向かって柔らかく笑んだ。
「しろさん、安心しなさい。この男はね、君のことが……」
「先生!」
琅一が凄い眼差しで、そんな岩永を射た。視線で人が斬れるなら、今頃岩永の命はないだろうと思わされる一瞥にすら、岩永は動じず、真摯な眼差しで、琅一を諌めた。
「琅一、もう素直になった方がいい。しろさんは、きみが何をどうしても、きみのことを好きなままだよ」
刹那、殴られたように琅一の肩が揺れた。
しろは琅一を仰いだ。知りたいことがあれば、しろに直接訊けばいい。それともやはり琅一には、しろのことが重荷なのだろうか。だからわざと琅一を嫌いにさせるようなことをして、しろが自主的に琅一から離れるよう仕向けたのだろうか。
「ろ、ういちが……、おれを好きじゃないのは、知ってる」
それでも、口を開く。
苦しくて息ができなくなりそうだった。
たとえそうだとしても、しろの身体がそうであるように、心も琅一に向かってしまう。
「おれが邪魔なら……、おれは琅一を諦めるし、手出しも口出しもしないから。時々、手をつないでくれれば、それで全部我慢できる。琅一が言うことは何でも聞くし、元気になるようもっと頑張る。元気になれたらひとり立ちして、あまり、め、迷惑を、っかけないように……」
「しろ」
しろが言葉をにじませると、琅一に低く名を呼ばれた。
「も、もらった恩は、全部は返せないかもしれないけれど、できる限り、掛かったお金は弁済するし……っ、元気になったら、きっと迷惑をかけないようにできるから、だから」
「そんなあて、どこにもないだろ」
「あ、ある。岩永先生が……っ」
まるで人生を諦めたような琅一の声に、しろはむきになった。この人にだけは、幸せを諦めてもらいたくない。自分を救ってくれた琅一にだけは、この手からでなくとも、幸せをあげたいと強く思う。
「あー、凄い金額を提示されたのは事実だけれど、どちらかというとその人は収集家だから、長期的な売買には向かないだろうねぇ」
岩永がしろの言葉を引き取って言うと、しろは愕然とした。
「そんな……」
酷い。岩永はしろを謀ろうとしたのか。甘い言葉で誘惑して、しろから利益が引き出せたら、見返りに玉手箱を開けて、笑うつもりだったのだろうか。それとも、しろのような病人が相手では、商売は無理だとはなから見切られていたのか。
「で、でも……っ、おれには価値がないかもしれないけれど……っ」
ぽろぽろ涙が零れ落ちて花びらになる。琅一に見られたくないのに、止まらなかった。そんなしろを見て、琅一が諦めたように言う。
「もういい」
良くない。琅一の人生を邪魔したいわけじゃないのに、しろが生きていくには、琅一との関わりが不可欠だ。それが哀しくて、情けなくて、どうにもできなかった。
「もういいんだ。我慢するな」
「や、だ……っ」
琅一は、静かにしろの頬からこぼれ散る花びらを指で拭った。
「お前に泣かれると、俺は駄目なんだ。何もできなくなる」
「琅、一、……」
「お前のことを考えると、心がおかしくなる」
「……っ」
別れの言葉より、ずっとそう言われることの方が堪えた。打ちのめされたしろの背中をそっと琅一が支える。
「ここまで拗れたのはきみが悪いよ、琅一。僕も顔が痛いし」
岩永の言葉に、琅一はまるで意地を張りすぎて我慢しかできなくなった子どもみたいな表情で言った。
「しろ、よく聞いてくれ」
「ゃ……っ、やだ! いやだ! おれ、もっとちゃんとするから……っ! だから……」
「聞いてくれ、しろ」
首を振るしろに琅一は厳しい声を出した。触れられた頬からはらり、と花びらが生まれ、肌と肌を隔てる。琅一とは、一生、こうして花びらが生まれ続ける限り、直に肌を重ねても本当の意味で触れられない。だからきっと、琅一はしろが嫌いになったのだと思った。
琅一を苦しませたくないのに、花びらが生まれるたびに、痛ましい顔でしろを見る琅一がいる。もうそんな顔はさせたくないと思うのに、しろを見る琅一の表情は、険しくなる一方だ。
「……っ、ぅ……っ」
「しろ、聞くんだ」
暴れるしろの抵抗を封じた琅一は、しろに強い視線を合わせ、言った。
「お前のことが、好きだ、しろ」
ともだちにシェアしよう!