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第34話

「好きだ、しろ。この身が裂かれる気がするほど、気がふれそうなほど、お前のことが好きだ」 「え……?」  一瞬、幻聴が聞こえたのかと思った。頭が理解するまでに数秒の空白が必要で、鼓膜が琅一の声を吸い込んでから、しばらくぼうっとなった。 「だから、お前が俺のことを、嫌いになればいいと思っていた」 「な……、え? な、なんで……?」  わけがわからない、という顔をしたのだろう。琅一は呆然とするしろから目をそらし、苦悶の表情を浮かべ俯いた。 「俺には学歴がない。どこの生まれとも知れない。身分も低い。善悪の判断も、正直あまり苦手だ。お前の郷で何をしたか。俺はお前のことになると、見境がなくなる。だから」  震える声で琅一は続けた。 「面倒を見るつもりで連れてきたお前に、劣情を抱くようになってしまった。なるだけ距離を取って、大事にしたいと思いながら、一方では何度心の奥でお前を穢したか。それが態度にも出てしまって、お前を傷つけた。今も傷つけている。お前に逢って、存在を認めてもらって、生き返った気持ちがしたのに、俺は自分勝手に満足することばかり、考えている。お前を幸せにしたいのにできない。だからだ」 「そ、そんなことは……」 「そんなことはあるんだ。しろ、お前は別の誰かと一緒になる方がいい。もっと普通の、学歴も出自もしっかりとした、心根の優しいどこかの誰かと。俺を想うよりも、その方がずっとお前は幸せに暮らせるようになるに決まっている。だからもう、俺を想うな」  言いながら琅一はしろの頬にかかる髪を梳き、そこから白い花びらが生まれるのを見ると、泣き出しそうな顔をした。 「……ここまで言っても、お前は俺を諦めないのか」 「ど、どうして……、だって、おれ、は、琅一が……」  琅一のことがとても好きだ。いつも無口な琅一が、今日のように喋ってくれるだけで、もっと好きになる。郷で起きた件については、しろにだって同じ罪がある。琅一にされたことなら、表面上は嫌がっていたが、しろが望んだことでもあった。傷つくことだって怖くはあるが、琅一に刻まれる傷なら、他の誰かにされるより、ずっといい。  だが、琅一はしろが口を開こうとすると、それを止めた。 「言わなくていい。知っている」 「琅一、おれ、無理だよ……。他の誰かとなんて……っ」  こんなに近くにいるのに、何も通じ合うことができない。しろから言葉を奪った琅一は、ぐしゃりと表情を曲げた。 「花弁症の花びらは、好いた人物が触れた時だけ、あふれる」 「えっ……?」 「お前が俺にひと目惚れしたのだろうと、お師匠様は言っていた」 「……っ。そ、そうだ、よ。おれは、ずっと琅一が……っ」 「言うな。いいんだ。こんなに好いてくれて、ありがとう、しろ。俺はどう恩返しをしたらいいかわからないぐらい嬉しい。だけど情けないことに、お前にもらったものを、俺はどうしたって返せない。お前の想いの大きさに、見合うものが俺にはないんだ」 「そんなの……っ、いらな……」 「そういうわけにはいかないだろ。お前には、ずいぶん酷いことをしたし、苦しい目にも合わせたのに。俺が、抑えがきかなくなって、感情が理性に勝ってしまって、お前に無体を強いたことを、どれだけ後悔したか。でも、自分でも制御できないんだ。いつまた暴走するかわからない。お前が傍にいると苦しくて、寂しくて、心が悲鳴を上げそうになるんだ。だから」  だから。  だからもう終わりにしたいと、琅一は言うのだろうか。  しろの気持ちを知っているくせに、しろが好きで仕方ないと言う口で、終幕を宣言するのだけは、聞きたくなかった。 「それに、俺には、お前に言ってないこともある。花びらを集めた新しい薬房で、今万能薬をつくる実験の最中だ。だからお前が出す花びらを、俺は必要としている。こうしてしろの気持ちを利用している自分が、こんなことを言うなんて、度し難いと思わないか。そういう意味で、俺は心底、自分が嫌いだ」 「琅一……」 「だから、お前が俺から離れていくなら、それでいいと思っていた。好いてくるお前のことや、自分をどう扱ったらいいのかわからなくて、お前が何をしても変わらないことが、俺は怖かった。お前から逃げて、それもままならなくなって酒に逃げて、なのに、帰ったら何も知らない顔で俺を許すお前を見たら、もうたまらなくなってしまった。挙句、お前の心を疑って立ち聞きするような真似をして……、先生に言われずとも、俺は人として最低だ。すまなかった。つらい思いばかりさせて、本当にすまなかった、しろ」  しろがそっと琅一の腕を掴むと、震えているのが布越しにわかった。琅一にこんな想いをさせていたなんて、全く知らずに、しろはひとりで思い悩んだふりをして堂々巡りを続けていたのだと思うと、恥ずかしくなった。 「琅一。おれに、触ってくれ」 「しろ……」  琅一はしろの言葉に怯えるように身を引こうとした。腕を掴んだしろが間合いを詰めると、恐ろしげに身体を強張らせる。まるで小さな子どもみたいだった。 「しろ。俺のことを嫌いになってくれ。でないと俺は……」  その頬にしろが触れると、花びらが散る。  その様子を見るたびに、琅一が苦しそうな顔をするのが、しろはなぜだかわかった気がした。 「触ってくれ、琅一」  しろはそっと琅一の掌を両手で握り締めた。  握った途端に皮膚に違和感が生じ、かさりと花びらが掌にあふれんばかりに生まれる。しろはそのまま琅一の手を持ち上げ、耳朶に触れさせ、それに頬ずりをした。 「琅一がどんな奴でも、おれは琅一が、好きだよ」 「……っ、しろ……」  ぱらぱらと触れるたびに白い花びらが床に散る。 「琅一は酷いこともたくさんするけれど、優しいし、おれをすごく気遣ってくれる。おれが心配になるぐらい、色々配慮してくれるし、おれの為ならどんなことでもして、必ずおれを助けてくれる」 「それは、俺に我欲があるからで、お前のためじゃない……」 「それでも。郷で琅一がしたことだって、それは最初に聞いた時は驚いたし動揺もしたけれど、もしかするとおれが突き飛ばした時、もう父の命は消えかけてたのかもしれないだろ。おれが罪の意識を持たなくて済むように、琅一がしてくれたんだとしたら、それは全然、気に病むことじゃない」 「……だが、俺は……っ」 「身分のことなんて今の世の中、拘る方が古い。それに、琅一には薬屋だってあるじゃないか。見合いの話がくるぐらい、魅力的な良物件だってことだろ。花びらのことだって、おれの父が郷で売り出した偽薬の後始末のこともあるんじゃないのか? なのに、おれのことばかり気にして、自分のことをないがしろにしすぎだ、馬鹿。おれが出したものを有効活用してくれてるんだから、どこにも気兼ねすることなんてない。おれがいいって言ってるんだから」 「お前の花びらがなければ事業には半分失敗することになる。だから……」 「それはあとから理屈をつけた打算だろ。岩永先生は少し失敗したぐらいで資金を引き上げるような人じゃないし。それに琅一は、おれの体調を一番に考えて、決して無理はさせようとしないじゃないか。どうして自分を普通より低く見せようとするんだ。少しは腹黒くたっていいぐらいだ」 「……俺は、」 「おれは琅一が、好きだ」 「しろ、俺は……」 「誰が何をどう言おうと、好きになったものは変えられないよ。琅一自身に頼まれたって、自分で自分に強いたって、やっぱり好きで、どうしようもないんだ。それは琅一も、わかってるだろ? おれに無理強いしたって言うなら、嫌いになれってことが一番、無理だ。そんなに自分が嫌いなら、おれが琅一の分まで好きでいる。それでいいだろ? ……それとも琅一は、おれが他の誰かを好きになっても、平気でいられるのか?」 「……っ」  震える琅一の背中を、そっと抱き寄せると、琅一は肩を少し竦めて、しろの首元に顔を埋めた。 「お前の人生ほど大切なものが、俺にはない。だから、お前を俺から遠ざけないとならないと思っていた。お前を穢したらいけないと思ってたのに、俺は自分を優先させて……」 「いいんだよ、琅一。優先させて」 「何でだ……っ、お前は自分の利になることを、もっと考えるべきだろ」  俺を優先させてる場合じゃない。他人の心配をしている場合じゃない。琅一はここに至りなおもそう主張したが、しろは次第にその真摯さに、胸を打たれると同時に、可笑しくなってきてしまった。 「笑いごとじゃない。お前は、ちゃんと考えてるのか」 「だって」 「お前の望むとおりにしてくれ。俺のことなんて、後回しでいいから。だから……」  苦しげに顔を歪める琅一のうなじをしろは抱き寄せる。 「だって、おれの望みは、琅一の幸せなんだ」 「──……っ、しろ……っ」  何をどう言ったら琅一にちゃんと伝わるのか、わからなかった。でも、わからないなりに踏み出せば、きっとここから変わっていける、としろは信じた。 「琅一はやっぱりおれより子どもだ。おれ、初めて琅一の顔をちゃんと見られた気がするよ。もう、心を殺して「俺を嫌いになってくれ」なんて言わないでくれ。もしもそれでも不満なら、おれを愛してるって言ってくれ。おれだけを、ずっと愛する、って」  しろが言い終わらない合間に、震えていた琅一の身体が慟哭を発するようになった。 「……っしろ、しろ……っ」  好きだ、愛してる、お前が好きだ、と心に染み入る声で、そっと囁く琅一の声は、長い軛から解き放たれたように甘く掠れていた。  琅一の抱えてきたものの大きさに、今気付けて本当に良かった、としろは思った。しろより二歳も年下なのに、それまでの琅一は、全部を自分で抱え込んでやってきたのだ。どれほどの重圧だったろう。罪悪感や劣等感から、好きな人に想いひとつ伝えられなかった琅一は、もうここにはいない。これからは、しろが少しずつ、ともに背負っていくことを決めたからだ。 「ごめん、琅一。ずっと気づかなくて、おれ……花魁たちや琅一にも嫉妬して。でも、もう今日限り、おれはずっと琅一を、ちゃんと好きでい続けるから」  しろはずっと琅一に甘えるばかりだと思っていた自分を反省した。返せるものがあって、支え甲斐のある人がいて、望まれて生きられるなんて、どれほど幸せなことだろう。 「おれは、おれのせいで周りが不幸になることを、何もできないことを、今まで悔いてきた。琅一のためにも何もできないことが、世界で一番、悔しいことだった。でも……」  しろが背中に腕を回すと、琅一もまたしろを抱き締めた。琅一に、しろを想う気持ちがあるように、しろにも同じ気持ちがある。琅一に同等のものを返せる可能性があることが、しろは誇らしく、嬉しい、と初めて思った。 「おれは琅一が好きだから、琅一のためになることをしたい。琅一はおれといると、最近、ずっと難しい顔をしてばかりだった。おれは、一緒にいても何もできない。琅一を支えることも、励ますことも、力になることも。琅一を自由にすることすら、できない。おれがいるから琅一は、恋愛だって、結婚だって、自由にできないんだと思ってた。だから、おれは自分が持ってるもので、価値があるものは全部、琅一にあげたいんだよ。おれにとって、琅一は、人生の全部だから……」  自分たちは、何て愚かで遠回りをしていたんだろう。  でも、回り道をした分、深まる想いがあることも知った。 「重くて、ごめん。でも、琅一の力になることが、ひとつでもあって、おれは嬉しいよ。それに、琅一がおれを好きなら、全部解決するじゃないか」  声を上げて笑ったつもりだったが、顔がくしゃくしゃになってしまって失敗した。琅一は片手を上げて、しろの頬に触れた。そこに花びらが湧くことを確認すると、琅一の痛そうな表情が、静かな笑顔になった。 「……帰ろう、しろ」 「うん。琅一。あ、手袋……」 「大事な原料だ。零すの、もったいないからな」 「うん」  琅一は手袋越しにしろの手を握りなおし、岩永に一礼をして、楼閣から降りた。  岩永は殴られた方の頬を押さえながら、無言のままひらひらと片手を振っていた。

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