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第35話
店に帰り着いた琅一としろは、店の者たちを安心させ、その日はそのまま商売をした。
取り付け騒ぎは大きくなるばかりで、妓楼の客もいつもの半分ぐらいに減ってしまっていたようだったが、近く帝銀が救済措置を発表するだろうとの見方から、少なくとも薬屋の者たちは落ち着きを取り戻していた。
「あの電報、くれて良かった。あれがあったからみんなを説得できたんだ」
「そうか」
琅一が出先から電報を打ってくれたおかげで皆が落ち着いたことを話すしろに、琅一はほっとしたように頷いた。
店を閉める時間になり、給料の前借りをしたい者にはさせ、元々あった金の一部を取り崩すことで、その日は何事もなく過ぎていった。
「おれ、少しは琅一の役に立った?」
「役に立つから、一緒にいるわけじゃない」
「そうだけど」
母屋の奥で昼の残り物を消費する食事を摂り、風呂に入ってあとは寝るだけという気楽な状態になったせいか、しろは饒舌になっていった。琅一に告白されて、恥ずかしくて沈黙できなかったしろは、いつもよりもよく喋った。
「なあ、琅一。おれ、花びらが利用できるもので、かえって良かったって思ってるんだ。だって、おれには何もないと思ってたから。でも、おれが琅一にあげられるものが花びら以外にもあるって思ったら……あの、琅一?」
薬屋に鍵を掛けた琅一は、母屋へ向かういつもの脇道に入った途端、しろの手を直に取った。
「あ、花びらが……」
「いい。あとで掃除する。それよりお前、岩永先生の部屋に二つ出入り口があるの、知ってるよな?」
「え? あ、うん」
いきなり話が飛んだので、驚いたしろが頷くと、琅一は少し恥ずかしそうに沈黙したあとで、言った。
「ひとつは厠へ行く通路に出るのも知ってるな?」
「うん……。それが?」
何か琅一が言いたそうにしてもじついている。珍しいこともあるものだとしろが先を促すと、琅一は前を見たまま振り返らずに言った。
「お前には隠していたが、姐さんたちとは何もなかったと言ったら、信じるか?」
「え? ……あっ!」
しろはその言葉にぱっと顔を上げた。見上げると、琅一の頬も少し赤い。
琅一がいつも利用していた二階の角部屋は、岩永のいる部屋と構造が同じになっているはずだった。わざわざ覗いて確かめたことはないが、確か厠へ降りるための裏廊下があるはずだ。
「それって……あの」
「お前に触ったあと、いつも角部屋を利用してたのは、厠へ行くためだった。他の人たちに怪しまれないように、同衾しているという体裁を取り繕ってはいたが、本当は張りぼての虎だったんだ」
琅一は前を見て少し俯きながら、言った。
「おれに触ったあと、その、何もなかった……?」
「なかった。姐さんと話すことはしたが、それ以上はしてない」
琅一の愛想のかけらもないその返答を聞いた途端、ぶわ、としろは岩永の前でした数々の隠微なままごとを思い出し、赤面した。琅一はその時々で様々にしろを凌辱したが、後ろから抱きかかえられたりすると、腰の辺りに当たるものがあったことを知っていた。しろは、てっきりそれを解消するために角部屋で誰かと交わりを持っているのだと思っていたわけだが、そんな裏技があるとはついぞ気づかなかった。
「姐さんたちは口が固いし、迂闊なお前のことだから、気付いてないんじゃないかと思ってな。お前に操を立てたのは俺の勝手だし、遅くなる時は急病人が出たり、花魁の愚痴を長々と聞いていたからだ。嘘をついて悪かった」
「それって、おれ……と、したいって気持ちを、他の誰かで解消しなかった、ってこと? でも、どうして? だって、すぐそこに……。琅一、じゃ、小一時間もあそこで何を……」
気になって根掘り葉掘り尋ねはじめると、琅一は仕舞いに居心地が悪そうに咳払いをした。
「一戦交えたと思えるだけの時間を、稼いでいただけだ。見栄を張ったんだ。きっと妓楼じゃ密かに笑いの種になっていたことだろう」
「じゃあ……」
だから岩永は臆せずに戸を叩いて中へと入ることができたのだ、と初めて気づく。その瞬間、胸の中にずっと氷となって残っていた、最後の欠片がとけ出した気がした。
「そっか、何もなかったんだ。……信じるよ。でも、もう少し早く言ってくれれば良かったのに」
しかし、しろが琅一に握られた手をぎゅ、と握り返すと、琅一は「だからもう、離れにつくまで、少し黙ってろ」と言った。
「え? 何で……?」
何かまずいことを訊いてしまったかと思ったしろが覗き込むと、年相応の表情を乗せた琅一が、珍しく言いづらそうにした。
「何で? 琅一。どうかし……っわ!」
握った手を琅一が自分の下肢に当てる。しろの手が常にない硬さに触らされていることに気づくと、急に言葉が出なくなった。
「ぁ、ぁ……」
途端に掌が第二の心臓と化し、琅一の鼓動までもが伝ってくる気がする。
琅一の硬さを知らされるだけで、力が抜けてとろんとなってしまいそうなしろが言葉をなくすと、「俺が色々、もたないからだ」と琅一は怒ったように小声で言った。
今日はきっと、全部最後までするのだ。
それがどんなことかは、朧げにしか想像ができなかったが、琅一とひとつになれる。
そう意識すると、何だか歩いている地面が綿でも踏みしめているように実感がない。
しろは思わぬ期待にふらついてしまいそうになった。
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