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第39話
岩永のもとでの琅一との交合が原因で、腰が立たなくなってしまったしろは、琅一に負ぶわれて妓楼をあとにした。
大恐慌の名残りのせいか、人でごったがえしているはずの中通りは心持ち閑散としていた。琅一がしろを大事に背中に抱いたまま、道の端を歩くには、ちょうどよい混み具合だった。
「琅一、おれ、重くない……?」
しろは、あの程度で足腰が立たなくなってしまうなど情けないと、琅一の背中に乗るのを渋ったが、同時に琅一と一緒にこの中通りを歩くこの時間が、好きだった。
「重くもなんともない。少し太れ」
琅一は、しろとの接触で花びらが落ちないように、首まで頬被りをして、手袋をしていた。表情は見えないが、しろには来た時よりも明るい顔をしているように見えた。
「重くなったら琅一に負ぶわれないから嫌だ」
食べてもなかなか太れない体質なのは、おそらく花弁症で花びらを生成する力を余分に使っているせいだろう、との琅一の見立てだった。しろが両足をぶらぶらさせながら言うと、「我が儘なお姫様だな」と揶揄われる。
「誰が姫だ……!」
しろが琅一の冗談に食ってかかると、「はは」と声を上げて笑われた。最近、琅一の笑う頻度が増えた気がして、しろは密かにその変化を嬉しく思っていた。ここに来た頃は、どこか思い詰めたような、硬い表情をしていることが多かった。琅一もだが、しろもそうだったと思う。でも、晴れて琅一と結ばれて以来、重さを感じることが少なくなった。
それはきっと、琅一もなのだろう。少年然とした身体も心も、青年のそれへと変わっていく過程で、ひと回り大きくなったのだ。
琅一には黙っていたが、年相応の表情をすることが多くなり、琅一は少し柔らかくなった気がする。
「なぁ、琅一。岩永先生に見せるのって、その……可哀想じゃないのかな?」
岩永の切なげな顔を見てしまったしろは、散々悩んで、琅一と話し合って決めたことだったが、もっと別の正解があったのではないかと考えてしまう。だが、琅一は別の考え方をしているようだった。
「同情するか? だがあれがあの人との約束だし、他の条件には乗ってこなかったろ。嫌なら別の方法を考えるが、あの人はあれで、なかなかへこまない人だぞ」
「別に嫌なわけじゃないけど、少し恥ずかしい……」
本音だった。岩永の前で琅一とするのは、もう嫌じゃない。何度もしている慣れもあったが、岩永は信頼できる人物だとわかっているからでもある。琅一が滲ませる独占欲も、しろにとっては嬉しい誤算だったし、しろの知らない琅一を知ることができて、新鮮だとすら思うことがあった。
「何だ、見られてするのが、良くなったのか?」
「違うったら! 意地悪ばっかり言うなっ」
しろが恥じらうと、琅一は少し声を上げて笑ってから、しろを背負い直して言った。
「あの人は、自分が不能であることを受け入れている。だが、一面では諦めることができないでいるんだ。進んで傷つきたがるのは、あの先生の悪い癖みたいなものだ」
「そう、なのか?」
「むしろ楽しんでる節さえあるからな。俺としては、同情より嫉妬の方が強いが、いつか俺たちのしていることが先生に通じて、あの人が人を愛することができるようになれば、いいと思ってる」
「琅一、……そうだね」
岩永の不能が心理的なものだとしたら、その可能性もなくはない、としろは思った。聞けば、琅一が最初に岩永から条件を出されたのは、岩永が神戸から帰ってすぐのことだったらしい。
「あの子の乱れてるところが見たいなあ」
岩永は相手を昂ぶらせることで不能であることを忘れようとしているようにも見える、と琅一が言っていたが、確かにその気があるのは明らかだった。岩永の頼みを無下にできなかった琅一は、しろに目隠しをするという際どい選択で、岩永は一切触れないという条件を付けて、その要求をほぼ丸呑みにしたのだった。
「心配しなくとも、あの人はあんなことで傷つかないさ」
「そう、かな」
「ああ」
確信を持った琅一の返事に、琅一がそう言うのなら、きっとそうなのだろうとしろは思った。
「それよりお前、先生に惚れるなよ」
「えっ、どうして? おれが好きなのは、ずっと琅一だよ」
「知ってる。出逢ってすぐに、花びらをこぼしはじめたの、お前だろ」
「そ、それは……」
「だからお前は惚れっぽいと言われるんだ」
薬屋の入り口までくると、琅一は、一旦しろを下ろして鍵を開けた。もう従業員たちはみんな帰っている時間帯で、人気のない薬屋の横の路地を、琅一に再び負ぶわれたしろが進んでいく。濡れ縁のある離れの屋敷まできた時、しろがそっと琅一の耳朶に向かって囁いた。
「なぁ、琅一。……好きだよ」
「……っ、どうした、突然」
「おれ、琅一が好きだ。初めて逢った時から、ずっと琅一だけが好きだ」
琅一は、しろを濡れ縁に下ろすと、振り返った。闇色の眸が優しく潤む瞬間を、もうしろは知ってしまっている。心の中が温かくなって、疼き出すのを止められなくなることも。
「──しろ……」
「おれを壊しても、琅一ならいいよ。琅一がおれを好いてくれるなんて、奇跡みたいだと毎日、実感する。あの日、琅一に出逢わなければ、おれは生きる術を持たないまま、きっと今頃、あの世にいたよ。だから……」
しろが言葉を継ごうとすると、琅一の指が伸びてきて、唇に重なった。
「お前のことは大切にする。決めたんだ」
やけに真摯な声で言う。
「しろは、おれの宝物だ」
「琅……」
「わかったら、馬鹿なことを考えていないで、寝るぞ」
「うん」
それが愛し合うことの隠語だと気づいたしろは、奇跡のような夜だと頷いた。
琅一を受け入れる準備は、できている。
琅一と、一緒に生きる覚悟も、きっと。
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