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 一応上司命令なので萎びているらしい頬をモミモミと揉んでいると、榊がパソコンから顔を上げ、じっとこちらを見つめた。 「ココはわかりにくいからな……まぁいい。萎びてないなら働け」 「お言葉ですが仕事がありません」 「仕事は見つけるもんだろ」 「でも換気扇掃除したらシオ店長怒るじゃないですか」 「営業時間内だぞ? 狂ってんのかお前は。どこにクレーマーと自称パパラッチが潜んでトゥイートするかわかりゃしねぇんだよこのご時世」 「ですよね」  常識だと言いたげなテンションで返され、そうだろうとわかっていた九蔵はニヒ、と苦笑いを返した。  まぁ衛生面もだが、油汚れの掃除途中で客が来店したら対応できない。  そんな仕事を除くとなに一つ仕事がないので、九蔵は物思いにふけっている。  草木も眠る丑三つ時だ。  客足など足跡もない。  しかも今夜組んでいるのは効率厨で裏方エキスパート・九蔵と、接客業のスーパースターで仕事の鬼店長・榊。  明日の準備どころか日常で手が回らない部分の掃除や点検、下準備ができる。というかそれをやっつける目的で榊は定期的に九蔵と夜勤を組む。  めくるめく日常業務のメンテナンス、と言ったところだ。  なので今は本気で暇だが……もう二時間もすると、朝帰りの客がやってくるだろう。 (二時間……動いてねぇとバレンタインのこと考えて落ち着かねぇんだよなぁ……てかシオ店長が仕事に口出すってことは、俺なんか作業残してるか? 見逃しあるか?) 「…………」 「ソワソワするな。本当に仕事はない。暇だからからかっただけだ」 「……。暇だからからかったって、シオ店長の冗談はわかりにくいんですよ」 「まぁ冗談じゃねえからな」 「え」 「ソワソワするな。冗談だ」  どっちなんですか、シオ店長。  こんな上司と二人っきりで約十時間を過ごさなければならない九蔵は、ヒク、と苦笑いの口角角度を引き上げた。  この人はどうして毎度夜勤で暇になると、相棒を弄って遊ぶのだろうか。  いやまぁおかげでバレンタインをどう乗り切るかでいっぱいの脳は休まるが、越後から聞かされる愚痴と悲鳴は止まらない九蔵である。  控えめにそう言うと、榊は腕を組んでトン、と壁にもたれニンマリと笑う。 「だから初めから私の店には、メンタルのタフな人間しか入れないんだよ。新人研修の段階で消えられてもめんどうだし、上司と冗談も言えねえやつは私がつまらない」 「そうなんですか? つかメンタル基準って、自分で言うのもなんですがよく俺取りましたね……」 「や? 落とそうと思ってたぞ?」 「え゛」 「だってお前あの時、肩幅と身長で誤魔化せてるだけでガリッガリだったろ。クマ作った死に損ないの顔で陰険な笑い方してたし、見てくれは地雷案件だったからな」 「……あ〜……」  九蔵はヒクヒクと引きつったままの顔を真っ赤にして、恥ずかしげに逸らした。  意地悪そうに笑って榊が言う九蔵は、確か前の職場を辞めた直後の九蔵だ。  寝る間も惜しんで手続きと準備を進行し、最短で会社の寮からこの街に引っ越してきて、その日のうちにあちこちアルバイトの面接を受けたのである。  けれど榊の言う通り、九蔵はとてもじゃないがマトモな様子ではなかった。  仲間に囲まれる同期と職場の雰囲気に自信を粉々に砕かれ──仕事で必須だった営業スマイルが、全くできなくなってしまったのだ。  その事実が、辞めようかと迷っていた九蔵の背中を押した。  あの頃は趣味や他人に一切興味がなくなり、食事は買いだめした栄養補助食品と水道水ばかりだった。  顔色は悪く覇気もなく、自信がないので姿勢も悪く自己主張が下手。  元々の体型が薄っぺらいので前の会社では同僚たちに気づかれなかったが、他人から見るとあまり雇いたくない有り様だろう。  手当り次第に予約を入れた全てのアルバイトの面接で、軒並み不合格。  その上当時の自分は窶れ果てた姿に気づいていなかったので、寸暇を惜しんで〝早く受からなければ〟〝もっと愛想良く笑わなければ〟と焦ってばかりいた気がする。  そんな中で、最後の最後。  たった一人だけの夜勤を募集していたうまい屋に、応募した。  ちなみにこれ、笑い話である。  シリアスシーンなわけがない。むしろ黒歴史だ。世界一の不幸者のような顔をしていた。恥ずかしい。悪酒に酔った翌日の気分でいたたまれない。  故に今の九蔵は耳まで赤くなり、わかった上で榊が語る聞くに絶えない昔話を「ええ。ええ」と生返事で誤魔化す。

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