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迷う二夜
「紫音、会いたい…」
ふいにしおりから花の香りが起ち上がった。
左側からすうと吹いてきた風に誘われるように顔を上げると、もう数え切れない程見直した場所に細い道が現れている。
「紫音…」
斎藤は足を一歩細道に踏み入れた後、早足で歩きながらネクタイを緩め抜き取る。
抜き取ったそれをスラックスのポケットに乱雑に突っ込むとそれを合図にするかのように走り出した。
初めて訪れた時と同じように暗闇から突然光の中に背中を押されたように目が眩んだ後、ぼんやりと浮かぶように紫音の店が現れる。
息を切らせたまま呼び鈴を押すと今回は待たされることもなくドアがキィと音を立てながら開いた。
薄紫色の着物を着た紫音を見た途端どれほど焦がれていたのかを微かに震える脚と喉の渇きで思い知る。
どうぞとドアを押さえる紫音を掻き抱いて斎藤は漸く声を発した。
「会いたかった………」
泣き出してしまいそうな悲痛な声を前に、紫音は斎藤の胸を押し返そうと置いた手をそろそろと背中に回して斎藤を赦した。
斎藤の乱れた呼吸が落ち着き、抱き締められた腕から僅かに力が抜け、紫音も漸く一息細く吐き出す。
「紫音………」
耳朶に唇の熱を感じたと思った次の瞬間には名前を呼ばれ、久しぶりの声に肩がびくりと波打った。
「………入りましょうか」
用意されたような笑みを讃えた紫音に仰ぎ見られ、斎藤は戸惑いながらも開かれたドアに身体を入れた。
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