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強請る三夜
紫音はみなこ先生とみなこ先生の住む家で暮らすようになった。
みなこ先生には息子が一人いて、結婚もしていたが子供に恵まれなかった。
みなこ先生の息子というだけあって、息子もその奥さんも紫音にとても優しく接してくれた。
やがて養子縁組の話が持ち上がり、みなこ先生も喜んでくれた。
養子縁組した後もすぐ近くに住んでいるから、とみなこ先生との暮らしを許してくれた義両親の広い懐に感謝しながら穏やかな生活を送った。
紫音が20歳を迎える頃みなこ先生は体調を崩し寝込むことが多くなった。
ある日仕事から帰った紫音がみなこ先生の部屋を訪ねるとみなこ先生がベッドの上で身体をゆっくりと起こし傍らに紫音を呼んだ。
「寂しいけれど、困らせることがないようにちゃんとお話しをしましょう」
まるで明日にはお別れだと告げられているようで、紫音は必死で首を振った。
「紫音…あなたは本当にいい子。私の自慢の息子、最後のね」
折れてしまいそうなほど皮と骨だけになった、それでも変わらず優しい手が紫音の頬を震えながら撫でる。
「私が……逝ってしまったらここを改築してお使いなさい。工事や費用については明義(あきよし)と恵美さんにも頼んであるから。大丈夫、私の貯蓄でなんとかなるわ。
あなたのルーツを知りたいなら今のままではきっと難しい。もっといろんな…少し危険な仕事もして道を開かなくてはいけない。それを側で助けてあげられないのが………とても心残りだけど」
嫌だ。嫌だ、嫌だ!
行かないで……
もうルーツなんか知らなくていい。あなたがいてくれるのなら自分がどこの誰なのか、そんなことはどうでもいい。
あなたが教えてくれた。全てを教えてくれた。
包丁の握り方、野菜の切り方、煮物の作り方。
炊きたてのご飯の鼻を擽る匂い。出来たての卵焼きがふわふわなこと。
一生懸命掃除した後の清々しい空気。
一日干した後の布団の気持ち良さと匂い。
柔らかな石鹸の匂いと、ふかふかのタオルで髪を拭く心地良さ。
いってきますとただいまが面映ゆいこと。
いってらっしゃいとおかえりなさいの出迎えが嬉しいこと。
ごめんなさいも大事だけど、ありがとうの方がもっと大事なこと。
寂しい時には寂しいと言っていいこと。抱き締めてくれる温かな腕があることが嬉しいこと。
「あなたがいなくなるなら……僕もいなくなる」
顔中を涙で濡らす紫音を震える細い腕がゆっくりと引き寄せる。
「私の息子は…相変わらず泣き虫ね」
ふふっと笑う小さな人。
お母さん、と幻聴かと疑ってしまうほど微かな涙声がそう呼んだ。
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