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揺れる五夜
触れるだけのキスを唇にしてから笹本は紫音を強く抱き締める。
「紫音……君が本当に俺を望んでくれるなら、俺は全てを捨てて君と生きる。君も全てを捨てて俺と来られる?」
「全てを……」
笹本は家族を、妻と子、そして光に溢れた議員という職を。
紫音は明義と恵美の義両親を、みなこ先生と過ごしたあの家を。
言葉に詰まる紫音に笹本の肩が微かに揺れた。
「もし、全てを捨てて俺と来ても君はずっと後悔し続けるだろうな。俺に家族を職を捨てさせたことを」
君はそういう人だ。
労るような声に紫音は唇を強く噛み締めた。
「紫音、俺を好き?」
「………好き、です」
「ようやく聞けた。もう……それだけでいいよ」
その夜、笹本は帰らず眠ることもせず、ずっと紫音を抱き締めたままでいた。
部屋が明るくなり始めた頃笹本が身体を起こす。
紫音の唇に落とされたキスはしっとりと重なるだけのもので、それは言葉以上に笹本の思いを伝えてくるようで紫音の胸は引き裂かれるように痛んだ。
「紫音、山名元環境大臣を知ってるかい?」
ベッドに腰かけた笹本が紫音の髪を梳きながら問う。
「……はい」
「もう80近いご年配だが、まだまだご健在で人望も厚い。近頃奥様に先立たれ随分寂しい思いをされているそうだ。身の回りの世話をしてくれる信頼できる者をお探しらしい」
髪を梳いていた温かい手が頬を撫でる。
「山名大臣ならきっと君に優しくしてくれる。もう…望まないことはしなくて済む。
紫音……俺は」
笹本の目から一筋の涙が頬を滑り落ちた。
慌てて顔を背けた笹本は紫音の頬を撫でる手は休めずに鼻を啜り続けた。
「君を……本当に愛してる。手放したくない」
「………はい」
涙声の笹本の手を取り紫音はキスをした。
全てを捨てることなんて出来ない。
そんなことをさせたくない。
それでも……この人はこんな自分を精一杯愛してくれた。
それが、ほんの少し前に進める力になるように感じた。
「あなたなら……きっと立派な、お父さんより立派な議員になれます」
紫音の言葉に笹本は嬉しそうに笑った。
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