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第35話

 シオリは迷わず前へ進んだ。その場所だけは洋服が散乱しておらず、床が見える。畳の上に香の匂いを纏った布を敷き、そのうえにリョータを横たわらせていた。 「リョータ」  呼びかけに反応するようにビクンビクンと弓なりに身体が跳ねた。リョータの肌表面は赤黒い斑模様が浮かんでいる。まるで中で悪いものが暴れているような、そんな状態。 「なんだこれ……」  由悟と結界にばかり気を取られていたから、リョータの変化に気付くのが遅れた。リョータがむくりと起き上がる。 「やばいぞ、これは」  早くリョータの身体から追い出さねば。急いでベルトに手をかけるが暴れるリョータに阻まれて上手く脱がすことができない。同時に当然由悟の邪魔も入る。 「シオリ! どけ」  このままでは埒があかない。とりあえずここを離れることが先決だと、今度はシオリがリョータを担いだ。 「待てシオリ」 「待てって言われて待つバカがいるかよっ」  身軽な由悟に狙われたらひとたまりも無いはずなのに、由悟の動きはなぜか緩慢だ。 「あれって……」  由悟の背後で動いていた黒いもの。それは駆け落ち相手であった恋人を自分の父親に殺された彼女だった。 「またお目にかかりましたね」 「あんた……おとなしく無になるんじゃなかったのかよ」 「なりますよ。心残りを解消しましたら」 「心残り?」 「あの時のことでよくわかりました。求めているものがある場合、遠慮などしていてはいけないのだと。したいこともしかりです」 「どういう、意味だ?」 「こちらにいる由悟さんに、騙されたことが悔しかったのです」  想い人にあわせるから、この悪い奴に取り憑いて退治してくれと言われたらしい。 「悪い人って、俺かよ……」 「そうです。でもそれは間違いでした。由悟さんはあなたを困らせたい、あわよくば退治したいだけでした」  黒い影は彼女の周りを渦巻き、その面積を拡げてゆく。窓から入り込む火事のような夕焼けとのコントラストが不気味だ。 「私のような者が言うのもなんですが、この方はいなくなったほうがいいのだと思います。だから一緒に連れてゆきます」  彼女は再び黒い影と同化し、背後から由悟を抱きしめた。 「やめろ…………うおわーっ……ああっ!」 「あんた、やめなよ。こう見えて由悟の力はすげーぞ、あんたの方が取り込まれちまう」 「あんなにひどいことをしたのに、まだ私のことまで案じてくださるのですね……でもご心配はいりません」  彼女はふわっと笑った。 「悪霊だって負の感情よりも前向きな方が思わぬ力が発揮できるものなのです」  今までの禍々しい笑みではなく、きっと生きていた頃周囲に見せていたであろう微笑み。それが一瞬リョータをとらえた。 「掴んだものを離さないでください。そして慈しんで差し上げて」 「えっ」 「そうすれば、決まり事だって変わるかもしれません」  羽交い締めにされた由悟はやがてぐったりと足下から崩れていった。彼女はそれを冷たく見下ろすと、シオリに向き直った。 「それでは今度こそ、私を消し去って頂けますでしょうか」 「香澄さん」  急な呼びかけに彼女はふとあどけない表情を見せた。 「まあ、私の名前をご存じでしたのですね」 「一応、過去帳などを調べていましたから。香澄さん、本当にいいんですね?」  静かに頷いた彼女は膝をついてリョータの頬をすっと撫でた。その姿は煙のように細くなり、リョータの身体めがけて進んでゆく。 「この方の中にいるものは、私が一緒に連れてゆきますから」  すべてが終わるとアパートの中は真っ暗になっていた。外から街灯の灯りがわずかに入り込んでくる。 「香澄さん……。リョータ、目ぇ覚まさねえんだけど」  リョータのなかにいたものは、香澄と共に飲み込んで己の腹のなかに納めた。香澄の力が働いていたためか、それはあっけないほど簡単だったのだが、どれ程待ってもリョータの意識が戻らない。しばらく呆然としていたが、やがてシオリは立ち上がった。近くにあった派手な布でリョータの身体を巻いて抱き上げる。 「とりあえず、帰ろうな…………俺たちのうちに」  ドアを開け放したままアパートを後にした。絶望していてもそれなりに足は動くものだ。頬が痒くなったが、両手を塞がれているからどうにもできなくてリョータの身体を落とさぬようゆっくりと歩みを進める。 「あ……」 「えっ……」  ぐったりとしていたはずの身体がぴくりと動いた。驚いて顔を覗きこむとリョータとばっちり目が合う。 「リョータ……」 「シオリさんの涙が落ちてきたから驚いちゃって…………ごめんなさい」 「……無事だったのか。はあ……よかった」 「あの、歩けるんで下ろしてもらえますか?」 「だめだ」  君津に戻り二階の部屋に布団を敷いてリョータを寝かせる。 「俺、本当に大丈夫なんで……」 「だってお前、ずっと意識が戻らなかったんだぞ。今までこんなこと、なかったんだ」  このままリョータが目覚めなかったらと思うと、心配で心配でたまらなかった。 「だからよくなるまで横になってろ」 「だから! 大丈夫なんです」  シオリの心配をよそにリョータは随分と強情で、そのうえ生意気だ。だんだんとシオリも腹が立ってくる。

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