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紫陽花
カイはしばらく斎東を見送っていたが、斎東が確実に帰ったことを認識すると私のほうに向きなおった。
「お邪魔してすみませんでした。すぐにでも、おいとましますので。」
また弱々しく微笑む。
何をいい出すかと思えば。
(思ったとおり)
「斎東は承知しているのですか?」
「え?」
こいつ、身請けされた分際で、ご主人さまが帰ったらとっとと逃げ出すつもりなのだ。それでは私が斎東に殴られる。
カイは少し考えているようだったが、
「斎東さまには、大変よくしていただいて…感謝しているのですが、私には、どうしても行かなければならないところが…」 とだけいった。
黒い目が泳いでいる。しどろもどろだ。逃がしてなるものか。
髪からしたたる雫がカイの頬を伝って細い顎の先を落ちる。
寒いのか、カイはこまかく震えていた。
ここに置いておくと、斎東からの命 で食料や衣服を持ってやって来る男衆 あたりにこの男娼が見られてしまうかもしれない。野蛮な連中のことだから、その先はカイにとっておもしろくないことになるだろう。結果、やはり私は斎東に殴られる。
とりあえずこの美術品を移動させなければ。
「こんな雨のなかをそのような格好で旅立つなど、無理をされてはいけません。死にに行くようなものですよ。」
カイの黒目がつっとこちらを見る。気にせずさらに続ける。
「顔色も良くないですし、少し休んでからでもそう遅くはならないでしょう。旅支度とまではいきませんが、着替えくらいなら用意出来ます。それに、もう夕どきです。夕げの用意もいたしましょう。」
この男には人の好意を無碍 に出来るほどの非情さは無さそうだ。
出来るだけ優しい声色を使い、手を差し伸べる。
カイはまだ少し考えていたが、ぎこちなく微笑んで私の手を握り、階段を上った。
その手はおそろしく白く、冷え切っていた。
(さて、どこに飾るとするかな。)
カイを社殿の奥へと案内する。
外壁にそって縁側を進むと、社殿と住居部分とを繋げる渡り廊下がある。斎東が屋根付きで作らせたものだ。おかげでこんな雨の日でも濡れることなく社殿との行き来ができる。斎東の数少ない手柄のひとつ。とはいえ我が家は来客も少ないので、この立派な渡り廊下も主に斎東しか使わないのだが。
渡り廊下の途中、社殿のすぐ後ろに、幹だけになった大きな楠木があることに気づいたようで、御神木 ですか、とカイに後ろから声を掛けられる。
振り返るとカイは楠木に向かって手を合わせていた。やめてほしい。笑い出しそうになる。
「もと、御神木です。」
「え?」
「私がここに住み着く前に、確か雷で焼かれたとか。」
「…あなたは、ここの宮司ではないのですか?」
「まさか」
こらえきれずに吹き出してしまった。
「私が、神職に、見えますか?」
カイが目をしばたく。本当にかわいい顔をしている。
「…本物の宮司は、御神木が燃えたあと、供養もそこそこにどこかよその神社に行ったそうですよ。…ここはもともと廃屋のような社 でした。よそから来た私が、勝手に住み着いているだけなんです。庭いじりや掃除は苦にならないので、住める程度にはなっているでしょう。」
実際は、斎東が私をなぜか気に入り、ここの補修や整備をしてくれているので、廃屋をここまでするのにたいした苦労は必要なかった。
たまに食料や衣服なども持ち込んでくれる。人ひとり暮らしてゆくのには十分な環境だ。
特に、孤独を好む私のような人間にとっては。
「…なんだか、ここは、不思議なところですね。」
そうだろうか。
神社の形をしているのに神を祭っていないから?しかし神など、はなからどこにもいないのだ。
「この世ではないみたいだ…。」
そういうカイの、どこか悲しげな横顔に、私はなぜか秘かな寒気を覚えて一瞬だけひるんでしまった。
ここがあの世ではなかろうか。そんな空寒い心地になったのだ。
それほど美しい横顔だった。
とりあえずカイは客間に飾ることにする。
二つある客間のうち、廊下の奥のほうのそれに案内した。
廊下はそのまま縁側になっている。
前の住人がひさしを長くとってくれたので、この縁側は雨戸要らずで、庭に咲く四季折々の花々を一年中楽しむことができる。
今はあじさいの花が見事に咲いている。この男も気に入るだろう。
お湯を沸かして茶を入れ、着替えと一緒に持っていくと、縁側に座ってあじさいを眺めていたカイは礼儀正しく頭を下げ、恐縮しながら湯呑に口をつけた。
はぁ、と息を吐く。だいぶ落ち着いたようだ。まだ少し震えている。湯呑を大事そうに持っているが、冷え切った手を温めているのだろう。夏前とはいえ、雨の日のこの山中はまだ寒いのだ。
火鉢に火をおこしてから着替えてあたるようにいって、客間を立った。
人間嫌いの自分がいつの間にやらかいがいしくカイのお世話をしているさまはなんだか滑稽だ。
だが不思議と不快ではない。
カイの所作にはやわらかで自然な気品のようなものが備わっていて、男娼として身についたものかもしれないが、そういったものが私の何かをなだめているのかもしれなかった。
斎東は、こうなることを予見して私にカイを押し付けてきたのか。
--------------→つづく
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