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鬼子母神

 雷の光で目が覚める。  外はまだ少し薄暗いが、雨雲のせいだろう。  遠雷だ。音はここまで届かない。  そっと押入れから客間を見ると、布団には、カイが、死んだように眠っているだけだった。ほどかれた腰帯が畳のうえに散らかっている。  なんだ、あいつ、あのまま帰ったのか。  押入れから出て、そこで初めて自分の枕元に酒瓶が置かれていたのに気付き、かなり驚く。  酒瓶は二本とも居間に置いたままのはずだ。斎東はもしかすると、あれだけでは私のところに来たのかもしれない。  ぞっとする。なにごともなかったところをみると、私は無事のようだ。  落ち着いてみると、今度は、寝顔を見られていたことに腹が立った。  そのあと、なぜかおかしくなり、斎東をまねて「ふふっ」と笑ってみた。  居間に入ると、遠くでかすかにの音がする。  そのまま社殿に向かうと、上がり口にマキチがいた。斎東のいっていた差し入れを持ってきたのだ。  マキチは十五,六歳くらいの青年で、頭は少し弱いが素直で聞き分けがいいので、こういったおつかいには打って付けの人材だ。 「先生!これ、斎東さまから」  そういって、上がり口に置かれた重そうな風呂敷を指差した。  マキチは、雇い主の斎東のことは名前で呼ぶが、それ以外の人間のことはたいがい「先生」と呼ぶ。  自分より目上の人間を総称するのは、わざわざ名前を覚える必要がないから実はなかなか賢い技だと私は思う。  それにしても、斎東はまだうちに泊まっているものだとばかり思っていたので、いったん下界に降り、しかもこういった所要を足していたことに改めて驚かされる。  風呂敷を開けると、米や野菜のほかに、真新しい着物も入っている。  かなり重かったろうから、小雨のなか、荷物が濡れないようわざわざ傘をさしてここまで運ぶのは大変だったのではないかと思うが、マキチはたいした疲れも見せずにのぞき込んできて、「先生んとこ、今、お客さんがおるん?」 と聞いてきた。  斎東は何も話していないだろう。さて、どうしたものか。 「今、斎東さまの母君をお預かりしているんですよ。お体を悪くされていてね。ここは空気が澄んでいるから、しばらく療養されるそうです。」  斎東の父母はすでに鬼籍に入っている。どうかな、と思ったが、マキチは信じたようだ。 「体が悪くて寝ているから、奥の部屋のほうに行ってはいけないですよ。」  そういうと素直に、「わかった、行かない」といってくれた。  突然マキチは、「斎東さまのお母さんは、やっぱり鬼なん?」 などという。 「だって、タツ兄が、斎東さまは鬼の子だっていってたから。」  おもしろいやつ。  そして「あーっ」 というと、 「鬼子母神みたいな人なんかなぁ、先生!」 といって「じしし」と笑った。笑うと欠けた前歯が見える。  鬼子母神とは確か、自分の子のために他人の子を食った女の神ではなかったか。カイとは似ても似つかなそうだが、斎東の母親なら本当にやりそうだ。  つられて笑いそうになるのをこらえ、真顔で「そうですよ。もし、のぞき見でもしたら、バチがあたりますよ」 と脅してみたら、「えっ、ぜったい、見ねぇよ」 と真剣に怖がった。  ついでに、ここに斎東の母親がいることは、誰にも話してはいけない、と念を押してみると、また素直に「わかった。内緒な!誰にもいわない」 となぜか嬉しそうに答えた。  風呂敷だけとってマキチに返そうとすると、マキチは、荷物の中を指差して、「先生、それ、ちょうだい」 という。荷物のなかの巾着袋のことを指しているらしい。  巾着は二つあって、ひとつをあけると、それには刻み煙草が入っていた。私あてだろう。これもありがたい。 「そっちじゃねぇよ先生」  マキチがじれったそうに足をもぞもぞさせる。  もうひとつを開けると、中は白いこんぺいとうでいっぱいだった。 「やっぱり砂糖!おれ、鼻がいいもん!先生、ちょうだい!」  マキチは小躍りしている。なぁ~、ちょうだい、といってさらに手を差し出してくるので、 「これは、斎東さまから母君への贈り物ですよ。でも、マキチさんがそんなにいうなら、今から母君を起こして、一か八か、聞いてきてあげましょうか?」 とからかうと、さっと顔色が変わり、「いいっ」 と慌てて手を引っ込めた。おかしくてまた笑い出しそうになる。  すこし考えて、マキチに「今から、風呂に水をはって、沸かしてもらえませんか。そうすれば、母君もお喜びになって、マキチさんにこんぺいとうを分けてくれるかもしれません。」 といってみた。マキチは大喜びで「わかった!」 といった。  この屋敷の風呂は無駄に立派に出来ている。  斎東が、自分の屋敷にあるのと同じものを、わざわざ増築して作らせたからだ。構造は五右衛門風呂と同じだが、形は四角く、縦に長い。四方の壁をヒノキ板が覆っている。  ヒノキのすのこを敷いてから水を貼り、外の炊き場から沸かす仕組みだ。沸き過ぎれば、風呂の横に置いている水瓶の水でうすめる。風呂の周りは石畳になっていて、そこで体を洗ったり流したりも出来る。  だが大き過ぎるので、私は自分で水をはって沸かすことをめったにしない。井戸から水を運ぶ労力が並大抵ではないからだ。たいてい、必要なぶんだけ沸かして、石畳で体を洗ってしまいにする。  マキチが引き受けてくれて助かった。たぶんカイは、目が覚めたら、風呂に入りたいと思うに違いないから。  昨夜、カイが斎東に、「身をけがすわけには」といったことを、私はめざとく覚えている。  カイが寝ている客間がわからないように、傘をさし、遠回りをして外から風呂場に連れて行く。マキチに、きれいに洗ってから、とか、水はそこの井戸で薪は、などと指示を出し、終わったらまた同じ順路を戻って鐘を鳴らすようにいった。  差し入れられた食材を使って雑炊を炊いている間に、呼び鈴がなる。風呂も沸いたようだ。マキチに礼をいって、こんぺいとうを少し分け、帰らせる。 「先生!おれまた、いつでもお風呂沸かすよ!斎東さまの…あっ鬼子母神さまのためにな!内緒でな、これ、内緒!」  こんぺいとうが嬉しいのか、秘密の共有が嬉しいのか。マキチはまた欠けた前歯をみせた。 ------------→つづく

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