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あじさい

 私らしくもない、居ても立ってもいられない調子で境内で斎東を待った。  斎東は夕暮れ時になってやっと現れた。雨はまた本降りになっている。 「医者は?連れて来なかったのか?」 「氷を持ってきた。様子はどうだ。」  いいながら、斎東はずんずん客間へ向かう。  おそらくマキチか誰かに、山の洞穴にある氷柱を取って来させたのだ。  馬鹿が。氷など役にたつか。必要なのは医者と薬だ。どこまでカイを秘匿にしておきたいんだ。  憮然として斎東のあとをついて歩いた。  カイは、さきほどとはうって変わって不気味なほど落ち着いて息をしている。  しかし薄く開けられた目には何も映っていないかのようで、意識すらもすでにどこか別の場所にあるふうだった。手をかざしても、声をかけても、反応する気配がまったくない。  私は間近で見ていられなくなり、蚊帳の外に出てカイの足元へ移り、壁を背にして座った。きせるに煙草をつめて火をつける。  深いためいきを吐くように、ふうっと煙を出す。  斎東は、じっと静かにカイの枕元に座っている。  煙を吐きながら、こんなに取り乱した様子の斎東を見るのは、はじめてだと思った。  何も出来ないのだ。  斎東ほどの男が、動くことも出来ずに、固まって、ただじっとカイの顔を見ている。  斎東は自分が持ってきた氷を手にとり、小さなかけらをカイの口に入れた。  氷は、カイの口のなかで、ころ、からん、と、こんぺいとうのような音をたてた。  カイは、氷を、やはり噛まずにゆっくり舐めた。  溶けた氷を飲み込むときに、カイののど仏がゆっくりと動く。  カイの声がした。 「…うみの、おとがする…」 …海? 「あれは森の音だ。風が強い。嵐が来るんだ。」  斎東が答えた。  そうか。森の音など、山で暮らす人間には聞こえない。 「…斎東さまは…」  カイの澄んだ声が、小さく漏れて聞こえる。 「…海を、ご覧になったことは、ございますか?…」 「ないな。おれは山しか知らん。」  カイは微笑んだようだった。 「…一度、ご覧になるといい…そうだ。我が家の借景は、見事です。白壁の向うに見える海は、どこまでも碧く、庭に咲くハマユウとの対比が、とても美しい…」  そういうとカイは、鎖がつながった白い手首を宙にのばした。  人差し指が、震えながら天井を軽く指さしている。 「…ほら、あんなに、」  ぞっとした。  カイが見ているのは、この世のものではない。  笑っているが、その目はどこか殺気立って見える。あのときの、暗い部屋の奥で笑うカイを思い出させた。  白い花の中で、血だらけの身内が迎えに来ているのかもしれなかった。  斎東がカイの肩を抱いて膝にのせる。手首がぱたんとカイの胸に落ちる。  斎東の腕に乗った白い顔。やはり笑っていた。  ふっ、と、とろりとした黒い眼が、私を見る。 「…ヒミズさまも、」 「おい。」  私に向かって伸ばそうとしたカイのその手を、斎東が柔らかくつかんだ。  ああ。この世の生きものとは思えないほど、妖艶な微笑。  それを抱きしめるようにして、斎東の強い魂が、カイをかろうじてこの世に繋ぎとめているかのようだった。 「カイ。」  斎東の声。 「死ぬな。」  斎東がいった。優しい声だった。 「死ぬな。」  もう一度聞こえる。  斎東の大きな手のひらが、カイの黒い髪をなでた。  一番美しい、大切なものが、自分の手の中でなくなろうとしている。  斎東は今、どんな気持ちなのだろう。 「…斎東さま…」  カイの声は、紫煙の向こうで消え入りそうだった。 「…ヒミズさまと、ぜひ、一度、我が家に…」  斎東がカイの頬を、親指の腹でゆっくりとさする。 「カイ。お前はもう加佐井の長男じゃない。もういいんだ。あそこに戻らなくても。」  斎東がそういうと、カイは微笑んでいた口を静かに閉じた。表情が消えたように見えたので、とうとう死ぬのか、と思う。  すると、カイの目がゆるゆる震えて、カイは、左の目からすうっと涙をこぼした。じきに、もう片方の目からも雫が落ち、その雫は、透明な肌の上を少し行ってから、斎東の指に吸い込まれていった。  カイは、そして、また、ごく小さい笑顔を浮かべた。 …が、その笑みは、さきほどとはちがい、生きた人間の顔に見えた。 「……はい…」  その声は吐息にまじって聞き取りづらかったが、カイは、確かに、そういった。  加佐井の長男ではない。  そういわれたことで、カイのなかのどこかが、暗く冷たい場所に引っ付いていた自身と決別し、その身を深淵からすくいとっていったのだろう。  やがてカイは、斎東の胸のなかで、一度、息を大きく吸った。  それをゆっくり、長く、長く吐き出し、 そして、死んだ。  目を少し開き、くちびるを薄く開けたまま、美しい笑顔で、カイは、死んだ。  斎東は氷をまたカイの口に持っていったが、それはカイの歯にあたり、斎東の指からぽとりと落ちた。  斎東は、何も言わずにカイをまた布団に下ろす。  斎東に何かいおうと思い、蚊帳を開けて斎東の背中に近づいたが、カイの死に顔が間近に見えると、何もいえなくなった。カイは、確かに、淡く笑っていた。  いっても仕方ないのに、斎東に向かって、お前のせいだ、といった。 「お前が、殺したんだ。」  こわしたんだ。この美しい男を。  斎東に振り向きざまに殴られた。  きせるから灰がこぼれて、畳に散る。きっと畳に、いやな跡を残すだろう。  斎東の目は鬼のようだった。  怒っているような、泣いているような目をしていた。  完全に必要がなくなったカイの手かせを外してやると、手かせの跡がやはりくっきりと残っている。  私たちはカイを求めすぎた。  私たちが壊したのだ。  だが、もういっても仕方がないことだ。  私は、壁際の飾り窓の下に移動し、座って二人をみた。  斎東は長い間カイを見ていた。  境内のほうから、木々がざわめく音が、確かに聞こえた。  殴られた頬を触って、気付いた。  今まで斎東が人を殴る様子は何度も見てきたが、私が殴られたのは、これが初めてだった。  しばらくじっとしていたが、斎東は、ふとカイの布団をめくって、その軽い体を持ち上げた。  縁側に出て行くので、洋灯を持ってついて行くと、マキチが水だけはってくれた風呂場に着いた。服を脱がせ、カイを水に浸している。  灯りを置いて手伝うと、水に沈んだカイはまだ温かかった。  沐浴ができて良かったですね…と、皮肉な声を掛けてみようかと思ったが、何もいわずにおいた。  手でカイの体や髪を、ぬぐうようにして洗った。  二人とも終始無言だった。  そのあと、斎東が、カイのために用意してあったものでまだ着せていなかった新しい浴衣を持って来て、石畳にひろげ、そのうえにカイの体を乗せて着せた。  やはり白地で、ところどころに黒っぽい大きな葉と、薄い紫や青の小さな花びらがあるのが見える。  それは、あじさいだった。 (斎東、知ってるか。この花、カイなんだ。)  でも、やはり私は、何もいえなかった。  すべてが終わると、斎東はカイをまた腕に持ち上げ、なぜか社殿のほうへ向かう。  また灯りを持ってついて歩くと、渡り廊下に入り、楠木の横をとおり、社殿のそと壁の縁側をとおって、とうとう上がり口の呼び鈴のところまで来た。  屋敷へ持って帰るつもりか。そう思っていたら、斎東は、横にいた私を振り返り、カイをいったん左腕で抱くようにして持ち、右手を伸ばして私の頭をポンポンと叩いた。  それから、ふふっと笑い、下を向いて革靴の紐を持って、その手でそのまままたカイを抱え上げ、私に背中を向けて裸足で歩き出した。 あっ。  私は思わず手を伸ばして斎東の袖をつかもうとしたが、空振りした。  その手に、激しく雨粒が当たった。静かだと思っていたのに、いつの間にか叩きつけるような雨模様になっていたことに、そのとき気付いた。  嵐が来る。  斎東のいったとおり。  斎東は、いつも正しいことをいうのだ。  楼門の向こうの石段に、斎東の背中が雨にうたれながら消えてゆく。背中からこぼれ落ちたカイの白い腕は、じきに見えなくなった。 --------------------→つづく

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