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第9話
こうやってお客様は次々とやってくる。
そして、永遠にも思えるほど動きがないのも、目が回るほど忙しいのも、すべては不二夫の主観でしかないこともわかってきた。自分はただ目の前で起きることに、淡々と対応するしか方法がない。
その男性が店に入ってきた時、心臓がかつての機能をぶり返したのかと思った。錯覚なのだろうが、胸が轟く。
例えるならば雷に打たれたような衝撃を、不二夫はここにきて初めて受けた。
七十代半ばくらいの男性。
丁寧に撫でつけた頭は白髪で、年相応に艶を失っているが背筋がピンと伸び、なぜか希望に満ちたようなその表情から、不二夫は目が離せない。
「こんにちは。なかに入ってもいいですか?」
「ど……どうぞお入りください」
男性の、冥界の狭間に似つかわしくない真っ直ぐな雰囲気に押され気味だったが、我に返り案内する。
彼を待っているのは、白の開襟シャツに黒のスラックス姿で学生のように見える青年。時代を感じる出で立ちだが、高校生だろうか。立ち上がり、個室に入ってきた男性を睨んだ。
紅潮した頬と上下に動く肩が、青年の怒りの強さを表しているが、男性はなぜかうれしそうに青年をみつめている。
「小柴、俺は盛大に怒っているぞ」
「そうみたいだな」
「立ち話もなんですから、どうぞ……おかけになってください」
ふたりを席に座らせ、コーヒーをそれぞれの前に置く。青年はうっすらと揺れるコーヒーの表面を睨み付けたまま動かなかったが、やがて絞り出すように切り出した。
「智香子さん、優子さん、明乃さん……他にもいたよな」
「うん?」
「覚えていないのか? 皆、お前に惚れていた女性だ。あの人たちきっと…………きっと、いい奥さんになったのに」
「覚えているよ。実際皆いい奥さんになった」
「違うっ! 俺が言っているのは、お前の奥さんとしてだ!!」
激昂する青年をよそに、男性は薄く微笑みながらコーヒーカップの縁をゆっくり撫でている。
「俺は親よりも先に死んだからきっと地獄に行くだろうけれど、同級生のお前にはその前に、どうしてもひとこと言っておかねば気が済まないから。だから……待っていた」
「うれしいよ。私を待っていてくれたのが大森で、本当によかった」
「そんなふうに言うな! 俺なんて、本当は…………そんな資格なんてないのに」
皆お前に惚れていたのに、きっといい奥さんになったのに、と繰り返す青年の手は震えている。
給仕を終えた不二夫は部屋をでたところで立ち止まった。そこから離れるべきなのに、どうしても足が動かない。
男性が青年に歩み寄る。傍らに跪き、手をそっと握った。そしてゆっくり語り出す。
「いい奥さんに出会うとか、そういうのは私にとってまったく意味がなくてな」
「どうしてだよっ! …………お前は…………すごく格好いいし、いい奴なんだから、しあわせにならなきゃいけなかったのに」
怒っているように見えたのは泣くのを堪えていたのだと、涙をこぼした青年を目の当たりにして、不二夫はやっと気づいた。
「ずっと好きな人がいたけれど、気持ちを伝えることもできないまま、その人が死んでしまった」
「えっ…………」
「もう生きている意味なんてないって思ったよ。本当は自分もそこで、人生を終えたかった。でも」
青年は男性の言葉に絶句した。怒りを忘れ、憑き物が落ちたようになると、まるで子どものようなあどけなさが残る。
何かしら事情があったにせよ、こんなにも早く命を終えなければいけなかったこと、きっと悔いもあっただろうに。それなのに青年は先程からずっと、自分のことはお構いなしなのが、痛いほどわかる。それは男性の方もそうだ。
「病と闘っていた彼はもっと生きたかったと思う。だから……私はその分まで生きようと決めた」
「うっ…………」
「誰のことかわかるよな? 大森。ずっとお前に会いたかったよ」
青年はもう、ぽたぽたとこぼれる涙を止められなくなっている。死んでから永い時を経ると、あまり激しい感情を持たない人が多いというのに、青年の時はこの瞬間まで止まったままだったのだろう。くしゃくしゃに顔をゆがめ、男性が伸ばした腕に飛び込んだ。抱き留めた男性は少しよろけ、それからふたりで大きな笑い声を上げる。
「でも、こんなおじいさんの姿じゃ嫌われちゃうかな」
「そんなわけないじゃないか! す、好きだったんだから」
「さっき死神さんに聞いたけれど、過去の自分になら姿を自在にできるらしい。だから大森と同じ頃の姿にもなれるんだぞ。面白いな」
男性の皺だらけの手を、青年のすべすべの手が愛おしそうに撫でている。
「いい、今のままで」
「そうか?」
「今の姿が、この手が、誰よりも誰よりも格好いい」
「それならばよかった。この姿はお前がいない人生を、精一杯生きた証だから」
だから少しは褒めてほしいなと笑う男性の目尻には、涙が滲んでいる。
「小柴はよく頑張った、偉いよ。本当に格好いい」
「そろそろ照れるからやめてくれよ」
来世で再びめぐり逢えることを願い、ふたりは席を立つ。手を繋ぎ店を出てゆく姿を、不二夫はいつまでもみつめていた。
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