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第10話
「不二夫?」
普段冷静な白の声音が、やや心配を孕んだものになっている。
死神の面々も、接する機会が増えると心の機微が多少わかるようになる。白とは特に一緒にいることが多いから変化もわかりやすい。
カウンターに戻ってからずっと上の空だと指摘された。だが今はそれどころではない。
「白さん! 俺……」
なにか、忘れていることがあるような気がする。ずっと靄がかかったままの頭にチカチカとなにかが訴えてくる。
あの男性ふたり――彼らの関係が、不二夫の胸をざわつかせた。
今までだって同性の恋人同士を迎えたことはある。特段変わったことではない。だけれどなにかが違う。
「俺、なにか大切なことを忘れているような気がする。俺っ、会わなければいけない人がいるんじゃ……」
「落ち着け、不二夫」
これが落ち着いていられるか。思い出さなければいけないことが、ここまで迫っているはずなのに。
「白さん、なにか知ってるんですか? 俺って死んでるんですよね。なんで他の死んだ人みたいにここを通過しないでずっといるんですか」
白につかみかかり、揺さぶって必死に問いかけても返事をしてくれない。答えに詰まる白をみるのは初めてで、ありえない様子になぜかいらだちが募ってくる。
「判定を受ける前に、俺は誰かに会うためにここにきたのではないですか? 答えてよ、白さん!」
「そろそろ潮時なんじゃない? 白」
ふと割り込んだ声の主は花だ。
このところ言葉を交わすこともままならない程忙しそうにしていたから、きちんと顔を合わせるのは久しぶりだ。
「不二夫のこと、こっちでももう隠しきれなくなってきているわよ。私もできる限りごまかしたつもりだけれど、タイムオーバーみたい」
「……そうですか」
「よりによってあなたのことが大好きな、玉湾 様に知られてしまったわ」
はっとして固まる白を冷たく見上げると、花は小さくため息をついて不二夫に向き直った。
「不二夫、あなたが会うべき人は、ずっと店の中にいるわよ。ついてきて」
「えっ……」
思わず白を振り返るが立ち尽くすだけでなにも言ってくれない。
すでに普段通り表情をなくした姿からはなにも読み取ることができない。もう不二夫を見てくれない。
さりげないけれどいつだって白は、不二夫を気にしてくれていた。だから突き放されたようで不安な気持ちになる。
「白に同情はしなくていいわよ。このことは、あの子のエゴでやったことなんだから」
「エゴって……どういうことですか?」
「まあ、あなたを待っている彼に会えばわかるでしょう」
彼って誰ですか? と聞きたいが、小さな女の子のくせに花は歩くのが速く、見失わないように追いかけるのが精一杯だ。必死にあとをついてゆく。
「ここよ」
喫茶店には複数の階層があることはわかっていたけれど、登降を繰り返し、やがて一度も見たことがない廊下にでた。ウォルナットの壁と、濃い蒼の絨毯が敷かれ、白の店とは思えない鬱蒼とした雰囲気だ。その奥にわずかな光が漏れるドアがある。
「話が終わったら私を呼んで。わかると思うけれど、そう願えばすぐ私に伝わるから。それからあなたの判定までの担当は私がします」
「えっ…………白さんじゃないんですか?」
「今まで特に害がなかったから、皆知っていて放っておいたけれど。あの子……白はあなたに対してずっと、してはいけないことをしていたの。だからもう、担当になる資格がないわ」
あんなにずっと一緒にいてくれたのに、資格がないとはどういうことか。それに、してはいけないことってなんだ?
「入らないの? それならここをすっ飛ばして判定に進むけれどいいかしら」
「いやっ……行きます!」
このドアの向こうに、自分の過去を知る人がいる。頭の中に広がる靄を晴らす時なのだろうか。
「……失礼します」
「不二夫っ!」
おそるおそる部屋をノックし、中に入るとすでに男性が座っていた。
不二夫を認識するとふわっと目を細める。なぜか胸のあたりがもやもやして、締めつけられる気分になった。
にこっと笑顔をこぼす男性が立ち上がる。こちらに近づかれた分だけ、不二夫が後退りすると、男性はほんの少し怪訝な顔になった。
「もしかして、まだ怒ってるのか? 俺のこと」
「怒る…………ってなんですか?」
「おいおい、そこまでつれなくされると、結構傷つくぞ」
本当にわからないんだから仕方ないじゃないか。でも、こういうやりとりにはなんとなく覚えがある。
「すみません……俺、この店でずっと働いてて。多分死んだはずなんですが、その時のこととか全然思い出せなくて、その……あなたのことも」
男性は一瞬言葉を失ったが、すぐ笑顔になり不二夫から少し離れた。
それは初対面の人にも圧迫感を感じない距離で、男性がこの短い時間で、自分でも理解できていない不二夫の言い分を汲み、尊重してくれたのだとわかる。
明るく、澱みのない笑顔や自然な気遣い。
自分にないものばかり持っている人。大好きだけれど悔しいような相反する気持ち――。
身体の周りに貼り付いていた鱗が一枚一枚剥がれるように、心がむき出しにされてゆく。
男性は下を向いてふっと一回息を吐くと、不二夫に向き直った。
「俺の名前は、赤山剛志 です。死んだのは三十歳で、その時不二夫……くんは二十歳でした。俺たちは恋人同士だったんだけど、思い出せないか?」
「はい……なんか、すみません。それとかなりここで待っていたのではないですか?」
不二夫が喫茶店に来る前から店内にいたのであれば、ウエイターとして働いていた長い間、この席で待っていたことになる。
時間の概念がないとはいえ、それはあまりな仕打ちなのではないだろうか。だが剛志は「大丈夫だよ」と笑った。
「お腹が減るわけじゃないけど、飲み物や食べ物は望んだものがすぐ出てきたし、たまに近くの部屋を探検したり、案外退屈しなかったよ。あ、でも部屋を出たことは内緒な」
人差し指を唇に添えてから、いたずらっぽく片目を瞑る。その笑顔にはっきりと覚えがあった。
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