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ある春の日から一年後のお話 1 お静かに
心臓が凍てつくような感覚だった。
凍って、止まった心臓。その心臓へと通っていた血がさ、血管の中で行き場を失って暴れ出したみたいに、息が乱れた。
――藤志乃英次さんのご家族の方ですか?
はいって、答えたんだ。なんだろうって思ってさ。
――藤志乃さんが、倒れまして、病院に……。
その瞬間、心臓が一度、止まった。
「英次っ!」
止まって、軋んで捻れて、痛みにおかしくなりそうだった。
「えいじぃぃぃぃぃぃいっ」
「……うっせぇな」
「!」
愛しい人の死に際に、壊れるかと思った。恐怖に足がもつれて、何回も転んだんだ。
「……ったく、重病人の上に覆い被さって泣くんじゃねぇよ。寝てたのに」
「…………え?」
俺に言い放った不遜な叔父のふてぶてしい言葉に、今、とても痛いのは、心臓じゃなくて、その転んだ時にひどく打ちつけた、膝小僧だった。
「んもー、なんだよ! 盲腸って!」
「知るか。っていうか、お前は小学生か」
「これだって、英次のせいじゃんか!」
「おい、ちょ、こら、凪っ」
盲腸なんて知るかって、膝小僧のガーゼを笑う英次をポカスカ殴ってたら、看護士さんに叱られた。「お静かに」って言われてしまった。
「……お前のせいだからな」
「英次のせいだ」
「お前の」
「お静かに……」
「「はい」」
そして、二人して小学生のように静かに返事をした。
急性盲腸炎だったんだって。仕事中に腹が痛くて、その痛みに気を失いかけた英次はそのまま病院へと緊急配送された。そして、血縁者である俺が呼ばれた。
俺は、もちろん舞台の仕事の設置最中で、スマホは仕事で必要だからいつもケツポケットの中。知らない番号だなぁって思いつつ、仕事関係の人かななんて思いながら出て、そんで、本当に血の気が引いたんだ。
「手術は?」
「あとちょっとしたら、始まる」
「……えっ……マジで? そんな急に?」
「あぁ」
そういうもんなの? なんか急がないといけない理由とか。
「なんだ? お前、今夜ひとりぼっちになんのが寂しいんだろ?」
「は? そっ、そんなことっ」
意地悪な顔してる。英次が口の端っこを吊り上げて、不敵に笑って、一人でお留守番できるのかって、甥っ子の俺をからかってる。
「お前、洒落っ気づいてないで、へそまであるパンツ履いて寝ろよ? 腹、いっつも出してんのを俺がかけてやってんだから。今日は、それしてやれないんだから、わかったな?」
「んなっ! なんだよ! ふざけてないで、真面目にっ」
へそまであるパンツとか。俺は小学生のガキかよ。
「ほら、お前、仕事抜け出して来たんだろ? 平気なのか?」
今、舞台作ってる真っ最中だからさ。英次のほうが帰りが早い日なんてザラだった。
「俺の仕事のことより、英次のことだろ?」
「あ? その俺を起こしたのはお前だろうが。俺はぐーすか寝てたんだ」
夜が遅くてさ、英次の体調とかあんま知らなかったんだ。ここに来る途中も電話の向こうで英次の勤め先の人がさ、腹が痛いって、朝から言ってたって。俺はそんなん知らなくて。もしかしたら、俺が朝、行ってきますって、朝飯食べながら飛び出していった時も痛かったのかなって。
「……平気だ」
「……」
「心配、かけて悪かったな」
「ううん」
「手術して数日で退院だ。まぁ、それまでここでたんまり寝て休んどく」
頷くと、大きな手が頭を撫でてくれる。そして、俺と同じ指輪が光るその手で俺の鼻先を摘むと、昼寝の続きだって笑ってくれる。けれど俺にはさっきの電話が。
「凪」
「!」
「平気だ。俺のは」
俺のは――兄貴の時とは違うから。俺のお父さんお母さんの時とは違うから。
「悪かったな。怖がらせて」
あぁ、やだな、俺、すげぇ……震えてたんじゃん。
「ううん。平気だよ」
かっこわりぃ。
「仕事先の舞台監督とか先輩とかには言ってきた。数日休むって。だから大丈夫。そんで、俺、着替えとか取りに行ってくる」
「あぁ」
手、握ってもらって気がついた。震えてたって。カタカタカタカタ、怖くてさ。
俺の両親は火事で死んでしまった。部活の合宿中の出来事だった。合宿先に電話がかかってきて、それで、火事のことを聞かされて。もうその後は、俺の家族も、うちもなくなっちゃっていた。
「…………」
深呼吸しろ。俺。ビビんな。
「あ! 藤志乃さんのご家族の方ですよね」
胸にいっぱい空気吸い込んで、それから、思い出した両親の笑顔にスンって鼻を鳴らした時、看護士さんに呼び止められた。
「医師からご家族様に手術の説明がありますので」
「あ、はい」
しっかりしろよ。
「俺、家族です!」
「えぇ、では、こちらに」
手を挙げたんだ。英次と家族になろうって印の指輪。二十歳の時に二人でさ。その手を挙げて、背筋を伸ばして、元気に返事をした。あ……けど、ちょっと声でかかった。
「す、すんませんっ! 俺っ」
「いえいえ。どうぞ」
また叱られるって慌てて口を押さえた。だってさ、ここ病院じゃん。うるさくしたら、お静かに、だろ?
けど、その看護士さんは笑いながら、白い掌をピッと伸ばして、お医者さんの待つ応接室へと案内してくれた。
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