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ある春の日から一年後のお話 2 小言の秘密

 パジャマに歯ブラシセット、シュンプーセットに、タオル。それから下着類。全部をでっかい鞄に突っ込んで、いっそいで病院に戻った。仕事はもう一度連絡して、会社に家族が盲腸で入院だから、今日は一日休みくださいって言った。あとは何をしたらいいかなって頭ン中で何度も何度も繰り返し確かめて。入院の手引きも、バスの中で何度も確認してた。 「あの、すみません。藤志乃英次の身内の者なんですが、病室は……あ、ありがとうございます」  三階の西病棟、そこに英次がいると教わって、今度は三階へ。 「あの、藤志乃英次の身内の者なんですが」 「はーい、そしたらそこの受付帳に名前をご記入くださいね」  そうナースコール室へ顔を出して、名簿に名前を書いて、あと、お見舞いって書かれたカードを首からぶら下げて……。 「あら、藤志乃さんの。もう手術終わってベッドに寝てらっしゃいますよ」  顔をあげると、そこにはさっきの看護士さんがいて、俺の顔を見ただけ、俺のことをわかってくれて、案内してくれた。 「……英次」 「っ……」 「俺だよ。凪。動かないでいいよ。まだ麻酔残ってんだろ?」 「あー……」  顔色が悪かった。具合はさっきよりずっと悪そう。あと、手がハンパなく冷たい。だから、ぎゅっと手を握ったんだ。  大丈夫。英次はここにいる。  ただ、それだけで、ホッとした。 「俺の手、あったかい?」  いっつも英次が「子ども体温」ってからかってるのが、今、ここで役に立ったじゃんって、もしも次にからかわれたら、今日のことを言って反撃してやろう。 「今日は飲んだり食べたりできないんだけど、唇濡らすくらいならできるよ」  さっき看護士さんがそう教えてくれたんだ。吐き気とかあるから、氷で唇のとこ撫でてあげると多少すっきりするって。  手、ぎゅっと、ぎゅうぅぅぅっとしてた。そしたら少し握り返してくれて、ほんのりだけど、掌があったかくなってきた。 「濡らす?」 「腹……」 「ん?」  声、ガッサガサだ。空気混じりの声で聞き取りにくくて耳を寄せると、呼吸が浅いのがよくわかる。 「腹、すげ……いてぇ……」 「うん」 「気持ちわりい……」 「吐く?」 「っ」 「今日一日はちょっと辛いと思います。でも、明日にはずいぶん楽になってますからね」 「あ、はい。ありがとうございます」  さっきの看護士さんが点滴をチェックして、英次の体温確認して、血圧も測ってくれてにっこり笑うと病室を出ていった。 「おい……凪」 「? 何か欲しいもんある?」 「ナース、ナンパしてんじゃねぇ……」 「っぷ、バカじゃねぇの」  もう、こんな時くらい素直になればいいのに。小言ばっか。 「腹、穴開けすぎじゃね? なんか、あっちこっち痛いし」 「うんうん」 「おい……適当に答えんな」  だって、小言止まんなそうだからさ。 「あ、もー、バカ英次。動くから」  点滴、なんか変なことになっちゃったじゃん。ほら、チューブに血がさ。英次に声だけかけて廊下に出ると、順番に病室を回ってるんだろう、さっきの看護士さんがちょうど隣の病室から出てきたところだった。 「あの、血が、点滴んとこ逆流してるっぽくて」 「あら、今、行きますね」 「お願いします」  戻ると英次が頭だけ起こして待ってた。 「血、逆流してるから直してもらってんの」 「……」 「あ、そうだ。着替え持ってきた」  点滴を直すのはすぐに終わって、その看護士さんはまた仕事に戻っていった。  俺は、鞄の中にぎゅうぎゅうに詰め込んできた荷物を引っ張り出して棚へと閉まってく。着替えはさ、なんか、入院の手引きンとこに前開きのほうがよいってあったんだけど、なくてさ。 「そんで、英次の引き出し漁ってたら、シルクのパジャマあった。びっくりした。あんなん持ってんのな。着てるとこ想像したら悪役感すごかった」 「……うっせぇ……」 「持ってこなかったけどさ、持ってきたほうがよかった?」 「……アホ」  クスッと笑って、あとは歯ブラシ、割れないコップ、次から次に必要なものを棚にしまっていく。あ、けど、コップは今日は使っちゃダメ。飲食禁止。明日、お医者さんからOK出たら飲んでいいってさ。タオルはたくさん持ってきた。それからスリッパ。それとそれと――。 「……頼もしいな」 「……英次?」 「義姉さんにやっぱ似てんな。そういうとこは」 「そ?」 「お前が生まれた時だ」  俺? 俺と英次は一回り違うから、英次はちょうど中学生、十二歳、だった頃。 「おろおろしてんのは兄貴で、出産直後の義姉さんがしっかりしてたっけ」 「……」 「生まれたてのお前はさ……」  俺はそんときのことを知らないけれど、きっと英次は俺の顔を覗き込んでくれただろう。タイムスリップなんてできないのは、魔法なんてものがないのはお父さんたちが死んじゃった時に痛いほどわかってるけどさ。  でも、もしも生まれたての俺に俺が話しかけられたらね。  おーい。その覗き込んでる人、お前の初恋の人だかんなーって言ってやりたい。 「真っ赤でさ……宇宙人かと……思った」  そっと手に手を重ねると、もうすっかりあったかくなっていた。 「小言……多すぎじゃね?」  そして、さっきとても苦しそうだった呼吸は、気がつけば穏やかな寝息に変わっていた。 「あら、もう帰るの?」  看護士さんは検温が一巡したみたい。俺が面会の受付に立ち寄ったナースコールセンターに戻るところだった。シュートカットのハツラツとした人。 「あーはい。また、明日来ます」 「そうしてあげて。きっと本人もほっとするわ」 「あ、はい……」 「明日には見違えるように元気になってるわよ。今日は麻酔と痛み止めのせいで、ちょっと辛そうだけど」 「はい」  大丈夫だってわかってる。明日には元気になるって。でも、今、この人の笑顔と、くれる言葉にホッとした。  ほんのちょっとくらいはさ、やっぱ、心細くて不安だったから。そんな様子を見て、看護士さんが教えてくれたんだ。 「あのね……」  大丈夫。小言が出るのは安心した証拠です、って、そう、教えてくれた。

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