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ある春の日から一年後のお話 3 ご家族とご家庭

「え? 英次さん、盲腸なのっ?」  驚いた押田の目ん玉の代わりに、ぶっといストローからタピオカがポトリと飛び出た。  ちょっと買い物付き合えよっていうから、何かと思った。  ほら、ホワイトデー、だろ? はるばる海を越えてアメリカから届いたプレゼントのお返しを選びたいんだって。だから、ちょうどいいかなって、俺も買いたい物があったから。 「んもー、何してんだ、押田」 「わりっ」  今日で入院四日目。明日の診察の後、大丈夫そうなら明後日退院。  退院早くね? って、びっくりしたけど、腹腔手術だとそのくらいが普通なんだって。 「盲腸、かぁ、あの人も病気すんのな」  手術当日はしんどそうだった。ホント、顔色とかすごくて、心配したけど。その翌日行ったらさ、もう普通になってた。  よぉ、なんて笑って、あくびしてた。昨日は吐き気と倦怠感でむしろ眠れなかったから、眠くて眠くて、だって。まるで別人みたいに、一夜明けたら元気でさ。 「何? 電話とかあったの?」 「あ、うん」 「そっかぁ、入院の手続きとか、色々大変なんだろ?」 「あー、まぁ」  あの時はマジで慌てた。怖かったし、不安だったから、それを掻き消しながら、入院の手引きをぎゅっと握り締めて、鞄の中に荷物突っ込んで。 「でも、なんか……」 「?」 「なんか、よかった」 「……ふーん」  病気はさ、して欲しくないけどさ。けど、そういうわけにもいかないじゃん? これから先、何かあるかもしれない。だからさ、ちょっと予行練習っていうか。それに。それにさっ。 「けどよ、盲腸ってことはさ……」 「?」  盲腸ってことは? そう首を傾げた俺に、押田はニヤリと笑って、ちょっとちょっとと俺の耳元でこっそりと言ったんだ。 「んもー……押田の奴」  変に意識しちゃうじゃんか。その、あの。  ――盲腸ってことはさ。  あの、あれの。 「こんちはー」 「あ、藤志乃さんの」  西病棟三階、面会をする時はエレベーターのとこ、すぐにあるナースコール室で名前の記入と、来た時刻を書く。  今の時間、十四時……って書いて。帰りにはまたここに寄って、「面会中」の名札と一緒に面会が終わった時間をそこに書く。毎日顔を出してるから。最初はもう頭ん中がプチパニックだったし、もう、名前を書く手が震えて字がハンパなく汚かった。まさに、ミミズが今にも乾いて死んでしまうとそこにのた打ち回っているような字。 「ぁ……」  思わず、声に出た。今日、昔、英次が世話したモデルさんたちが面会に来てたんだ。知ってる名前、本名だけどさ、それが数行上のとこに書いてあった。  英次が世話してあげたモデルで、芸名の「アカリ」は英次が付けたんだ。名づけ親だからって、うちの芸能事務所を乗っ取られて時、すぐに他のとこに移籍した人。今はもうひっぱりだこの大女優さん。映画にも出てたっけ。助演女優賞とか、獲れたらしい。けど、すっごい義理深い人だから、英次の入院を聞いて一番乗りで来てくれたんだ。 「ねぇねぇ、すっごいよねぇ。昼間来てた面会の人ってさぁ、元モデルのアカリでしょ?」 「見た見た! 恋人かなぁ。真っ先に来てたもんね」  そんな会話が聞こえた。俺が、そのすぐ後ろを歩いてるなんて気がつかず、たぶん、若い人なんだと思う。看護士さんが二人、水道のところでそんな話をしてた。  英次がカッコいいって。  超売れっ子で超多忙なはずのアカリがご内密に面会に来るなんて、きっと絶対に何かあるんだと噂してる。  こんなのしょっちゅうだった。  だって、本当にカッコいいからさ。モデルさんの中にいても見劣りしない英次だから、そりゃ、そういう噂はよくあったし。  だから、慣れっこ。けど、やっぱさ。 「ほら、お二人さん、こんなとこでそんな話しないように。藤志乃さんはもう家庭のある方なんだから、そういう変なこと言わないように」  そのお二人さんは先輩看護士さんに叱られて、飛び上がって慌てて謝罪をすると、その場を後にした。叱ったのは、あのショートカットの看護士さん。 「……全く、ごめんなさいね」 「! あ、いえ」 「藤志乃さんは、今、診察受けに行ってるから、病室で待ってると良いと思いますよ?」  すれ違っちゃうといけないからと笑ってた。 「もしかしたら、あとでドクターが診察の結果と、退院に関してご家族にお話をしに病室に伺うかもしれないので」 「あ、はいっ」  ご家族、俺しか。 「…………? ……っ! あ、あのっ!」  そうご家族、なんだ。俺は英次の甥っ子で、英次は俺の叔父、なんだ。 「あのっ、俺のことっ」  ちょっと言葉が似てるから、そのまま聞き流しそうになった。この看護士さんが言って、そのまま流れていってしまいそうになった一つの言葉を慌てて追いかけて拾った。 「英次の、こと、ご家庭って……」  それってさ、奥さんがいる人によく使う言葉だ。俺と英次の場合はパートナー。だから、あの言い方じゃさ、英次には奥さんがいるんだから変なこと言わないようにって、言ってることになる。けど、英次の身内は俺だけしかいなくて。 「とってもステキな指輪ですね」 「……」 「それじゃ、失礼しますね」 「……ぁ! あ、はい。あの……はい」  びっくり、した。  あの人、俺と英次がさ。 「……」  結婚式、した。形だけでも、パートナーになったっていう証を残して、親しい人を呼んで、その日のことを皆に一緒に共有してもらった。けど、それは身内でのことで。 「よぉ、見舞い、来なくてもいいんだぞ。お前、仕事、丸二日行けなかっただろうが。舞台作ってる最中で忙しいんだろ? っていうか、お前、今日、こんな真昼間から面会してていいのか? 仕事戻ってんだろ?」  俺が英次のパートナーだってことは身内にたくさんお祝いしてもらったけど、それは身内でのことなわけで。 「遅れとか平気なのか? お前、舞台監督に……って、おい、お前、顔真っ赤だぞ。風邪か? 俺、まだ抗生物質飲んでんだぞ。体調崩したら退院延びるだろうが、って、おい、どうした? 凪、お前、俺の身代わりになって入院すんのかー?」 「んもぉー、英次っ」 「あ? どうしたよ」  なんでこの男はこうも不遜な感じなんだろう。あの日のしおらしさはどこに行ったんだよ。 「なんで、顔真っ赤なんだ、お前は。パプリカか」 「意味わっかんねぇし!」  だってさ、あの看護士さん、俺と英次が家族だってことをさ、本当の意味でわかっててくれたんだ。 「なんだよ。凪」 「っ」 「俺の匂い掻いでんのか?」 「ち、ちがっ! って、ちょっと、こら、撫でるなっ! っン、ああああああと少ししたらドクター来るんだってば」  パートナーってわかってた。そんで、この後病室にドクターが来るって教えてくれた。なんか、色々、見透かされて、見破られていそうで、気恥ずかしさで、俺は溶けちゃうかと思ったんだ。

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