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ある春の日から一年後のお話 4 死に際に愛の言葉を

 診察の結果全くもって異常なし。晴れて本日は退院の日。 「おま、また、仕事本当に大丈夫なのか?」 「んもー、英次はそればっか。平気だってば」 「ふーん? ……」  何? なんだよ。その不服そうっていうか、何かありそうな「ふーん」っていうのと、その後の沈黙。 「いたたた! なんだよ! 病人の腕、抓るなよ!」  だって、若い看護士さんがキャーキャー言ってた。カッコいいって褒めてて、アカリとのこと疑ってて、ちょっと声がはしゃいでた。モテてたんだろ。知ってるけどさ。ずっとそのカッコいい英次のすぐ後ろんとこをぴっとりくっついて歩いてきたんだから。  俺よりずっとお似合いのスレンダーな美人さんたち。おっぱいでっかくって、腰がほっそくって、綺麗な女の人たちが英次の隣を歩いてるのをずっと、うらやましいいいいって思いながら後ろンとこ陣取って見てたんだから。 「なぁ、もう全部鞄に詰めていいんだよね?」 「あぁ……っていうか、お前、すっげぇ持ってきたのな」  入りきらなくてどうしたものかと困ってたんだって。朝食後、さっそく退院の準備をって思ったけど、どう考えたって鞄におさまらなくて、ベッドの上にはその収まりきらなった分が並んでいた。 「だって、必要になるかもしんないじゃん、ほら、英次はカーディガン着て」 「あぁ」 「あ、あと、看護士さんたちにお礼、俺からも言ったけど、でも、英次からも言っておけよ? たっくさん世話になったんだから」 「え?」 「? なんだよ。お礼、言わないとか失礼だろ」  元社長のくせして、何、そんなもじもじしてんの? 「あー、けど、お前が言っておいたんだろ? なら、別に」 「はぁ? 世話になったの俺じゃないんだから、ちゃんと英次からしないと。社会人として、ほら」 「あー、いや、じゃあ。あとで」 「なんでだよ。ここ十時までに退院しないといけないんだろ?」  そう書いてあったじゃん。入院の手引き最後のページ、退院について、ってとこにさ。十時までに部屋を開けて、そのあと一階のロビーで清算とかするって。もうその十時になるんだから。  なのに、英次は珍しく、あーとか、うーとか言うばかり。  いっつも憮然としてるくせに、なんでかとても歯切れが悪く、心なしか、顔も赤いような。 「なっ、何? もしかして、熱上がったのか?」 「い、いや、ちげぇよ」 「けど、赤いし、なんか、おかしいし」 「だから、違うっつうの、ナースコール押そうとするなよっ!」  だって、真っ赤じゃん。熱あるんだって。ぶり返したんじゃねぇ? 風邪とかもさ、ぶり返すことってあるじゃんか。だから。 「あらあら、元気になったからって、ここは病院なのでお静かにお願いしますね」 「あっ……」  あの看護士さんだった。ショートカットの人。その人が騒がしさのあまり顔を出してくれた。 「あ、あの! 藤志乃英次がお世話になりました」 「いえいえ……元気になられてよかったです」 「はい!」 「お大事に」 「はい!」 「あと」 「病院ではお静かに、ですよね!」  元気に答えると、その声も大きかったらしくて、笑いながら「しー」って指でされてしまった。 「なんだ、お前、あのナース、気に入ったんだろ」 「は? そんなわけないじゃん」 「はいはい」 「ちょっ、英次!」 「ほら、行くぞ」  はぁ? なんだよ。ついさっきまで、あーとか、うーとか唸っておかしかったくせに。なんで急にさくさく動く出すんだよ。 「んもー、なんだよ」  普通にナースセンターのとこに顔出して、営業スマイルぶちかましで看護士さんたちの目ん玉をハートの形にしてさ。俺が挨拶したんなら、別に自分は行かなくていいだろって言ってたくせに、なぁに、テノールボイス決めて、カッコよく挨拶してんだよ。  意味わかんねぇ。  チヤホヤされて嬉しいですか?  アカリとの熱愛報道されて、こんな不遜な奴が相手だなんてって、アカリファンからの大炎上をされてしま……うのは、やだけど。俺の英次だし。アカリはただの育てたモデルってだけだし。 「……無言の圧がすげぇよ」 「だって……」  清算のために一階へとエレベーターで向かっていた。 「……おかしなこと口走ったんだよ」 「?」 「さっきのナースに」 「はぁ?」  なにそれ。あのショートカットの看護士さんに? 俺に気に入ったのかとか言ってたくせに自分がおかしなことを、はぁぁぁ? 「お前と間違えた」 「は?」 「髪型、似てっから」  麻酔が効いていた頃、あの看護士さんが英次の様子を見ようと顔を覗き込んだ時だった。麻酔で意識は朦朧としていて、上から覗き込まれる角度、天井からの照明で認識できるのは頭のシルエットくらいのもんだった。  それで、間違えて――。 「……言っちまったんだ。お前だと思って」 「…………はぁぁぁ? は? ちょ、何を? ねぇ! 英次ってば」 「そう何回も言えるか」 「はっ? そう何回も言えないことを! あの人に言ったの? ずっりぃ! 俺に言えよ! 俺に言ったんだろ!」  何それ、何、また真っ赤になってんだ。まるで、それじゃ、言っちまった言葉って。 「お前のやらしいここ、ぐちょぐちょにしてやるよ」 「んばっ! バッカじゃねぇの! そんなん、何回も言ってるやつじゃんか!」  ホント、バッカじゃねぇの。 「あははは」 「笑って誤魔化すなよ」 「あーはっはっは」  ちょうどそこでエレベーターの扉が開いて、一階の清算口に長蛇の列ができてるのが見えた。人の多さは病室フロアなんかの比じゃなくて。降りた瞬間、たくさんの話し声が溢れかえって、英次の誤魔化し笑いも、俺の怒った声も、全部がその中に紛れ込んでいく。  ホント……。 「……何、言ったんだよ。バカ」  一番聞きたい俺には言わないなんてさ。ずりぃ。 「ほら、行くぞ、凪」  そういって差し出された手はいつもの英次の大きなあったかい手で。 「わかったよ。っていうか、俺が清算すっから、英次は座ってろ」 「は? じじい扱いすんな」  悪い口調も不遜な感じもいつもどおりで。 「はいはい」  俺は嬉しくて、つい笑っていた。

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