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第12話 ねぇ、やだ。
心臓のとこ、ドン! って、殴られたみたいな感じだった。
そして、そっから先、瀬古さんが話している声が、受け答えをする英次の声がとても遠くに感じられた。ただ、言葉が、俺の心臓を殴った言葉だけがずっと頭の中で浮かんで消えて、浮かんで消えてを繰り返す。
英次は余計なことばっか話しやがってって怒ってた。瀬古さんは呑気に笑ってて、俺は愕然としてた。
――バイバイ。またね。
明るい瀬古さんの声がそう言ったのをぼんやりと聞いていた。
駅から歩いてきた道のりもよくわかってない。せっかく隣に英次がいたのに。いつもは車行動ばかりの英次と並んで歩く絶好の機会だったのに。これからも一緒に暮らしてたら、こんな夜の散歩をまたできるかもしれないって思ったのに。
もう、できなくなるの?
英次がどこか、遠くに行ってしまうなんて、考えたこともなかった。英次は、ずっと、名前を呼んだら、それがどんなに離れていても返事をしてくれるところにいた。でも、そうじゃなくなるのかよ。
英次はずっと、俺の家族で、そばに、遠くたって、会いたいって言ったら「ワガママ」って言いながら、たとえ五分でも時間を作ってくれる。俺のワガママを許してくれるところにいつだって、いてくれた。
海外って、俺のワガママを許してくれる距離? 俺が「会いたいよ。話聞いてよ」って言ったら、たった五分でも会いに来てくれる距離? 会いたいって思って、俺から英次のところへすぐに走っていける?
「覚えてたか? 瀬古のこと。英一と俺と瀬古でよく遊んでたんだ」
海外はそんな近いとこじゃない。
「今は海外で活躍してる。アステリのモデルも何人かレッスン受けにいかせてもらったっけな」
ねぇ、英次、そんな遠くに、行くの?
「けっこう業界じゃあ評判いいんだぜ?」
英次が――。
「行っちゃうの?」
英次が振り返って、いつもは涼しげで落ち着いた大人の男って感じがする目を大きく見開く。
「瀬古さんと海外、行っちゃうのかよ」
「……」
さっき、直に殴られたみたいに痛かった心臓が今度は急に熱くなって、慌てたように動き出す。自分の声が鼓動に邪魔されてちゃんと聞き取れなくなるくらい、大きな心臓の音。その音のせいで、自分の言葉すら見失いそう。
「凪……」
なんで、そんなびっくりすんの? 寂しいに決まってるじゃん。イヤって言うに決まってるじゃん。家族が、たったひとりの家族がそんな遠くに行ったらイヤに決まってる。本当にひとりになっちゃうのもやだし、何より、英次と会えなくなるの、ヤダ。
「行かないでよ」
「凪」
あぁ、俺が泣いてるからびっくりした? 自分のことでもない、叔父が海外に移住するってだけで、そんなに泣くかよってびっくりした? 心細いのかよって、思った? 違うよ。叔父だからじゃなくて、ひとりぼっちになるのがイヤなんじゃなくて、英次の近くにいたいんだ。
「凪? おい」
泣くよ。泣くだろ。これから俺は英次のもっともっと近くに行こうって思ってた時だったんだぞ。英次の一番近くにいけるって、最高に嬉しかったのに、そんな、心の準備なんてできてないのに、いきなりあんなこと言われたら、泣く。だって、俺は――。
「英次のこと、好きなんだ」
隠すつもりなんてなかった。いつか伝えようと思ってた。好きだって、家族としてじゃなくて、恋人にして欲しいって意味の好きをずっと英次に対して持ってるって、言うつもりだった。ただ、今じゃなかったけれど。今言ったって、はぐらかされるだろ? ガキくさい俺のことをあしらって、ワガママがすぎた甥相手って感じにさ。はいはい、わかったわかった、次な――なんて、あしらうためにわざと足音を乱雑にして、悪い顔をして笑うだろ? だから、今じゃなかった。
いつか絶対に伝えようとした「好き」はもっと濃くて深くてさ。それを信じてもらえるようになるまで、いくらでも待とうと思ったのに。
「英次のことが俺っ」
「ありがとな。俺もお前のことは大事な甥だって思うぞ。家族だもんな」
「違う! そうじゃなくて!」
台無しだ。もっと、こんなんじゃなかったんだ。大人になって、ノンケの英次だって惚れちゃうような男になってから、そっから勝負しようとしていたのに。
「俺の好きは! キスとかっ」
ふわりと頭のてっぺんに乗っかった大きな手。
「凪は……可愛い甥っ子だ」
「……」
その手はとても優しくて、涙がひとつ零れた。数え切れないくらいに頭を撫でられたことがあんのに、今、乗っかってる手が一番優しくて、一番、切なくなった。ふわりとしか触ってないのに、なんでだよ。
なんで、上から俺の言葉を押し戻すんだよ。優しいのに、俺の持ってる、英次に向けてる「好き」がどんなのかも話したらダメなのかよ。そんな強引に止めたくなるほど、ただの甥っ子にされる告白なんていらない? 趣味じゃねぇ? 不必要?
「すげぇ、大事な甥っ子だよ」
男で、家族で、叔父と甥の関係の俺からされる告白は気持ち悪くて、聞きたくない? なぁ、英次、言うのすら、ダメ?
泣かなきゃよかった。
泣いたらそれこそ、子ども扱いされるのに。それでも涙が堪え切れなかった。っていうかさ、自分が泣いてることすら気が付かないくらい、あの時の俺の脳みそはキャパオーバーしてたんだ。
もっと大人の男になって、英次の右腕になれるくらい、英次にとって必要不可欠な男になってから言うつもりだったんだ。英次が俺を手放すのは惜しいって思うくらいの存在になってさ。それから「好きだ」って言ってたら、甥っ子のワガママで片付けられないだろ?
そのための芸大だった。
英次の仕事の役に立ちたかった。そして、英次の隣が相応しい男になりたかった。芸大で、舞台演出からマネージメントまで、俺の知識丸ごとを英次のために使えるようになりたかった。
笑ってスルーなんてさせない。ありがとうの一言でなんて片付けさせない。そう思ってたのに。
瀬古さんの経営しているスクールのホームページを見た。全部英語でわけわかんなかった。そして、それを眺めてたら、また、涙が零れた。ポタポタッて落っこちて、スマホの画面が良く見えなくなった。だって、なんて書いてあるのか全然わかんねぇ。写真だけ遠くから眺めて「ふーん」としか言えない。そんな場所に英次が行くのかもって思ったら、寂しくなったんだ。
瀬古さんの笑顔を思い出すのも悲しくなる。あの人は英次をどこかにさらってしまう、俺にとっては敵にすら見えてくる。
――大事なことだからゆっくり考えて。
そう言っていたのを思い出した。軽い気持ちで話に乗るんじゃなくてちゃんとして欲しいってことだ。それはつまり、住む場所を向こうに移して仕事をして欲しいってこと、なんだろ?
英次が遠くに行ってしまう。それだけでも充分すぎるダメージなのに。
「凪? お前、何、バイトすんのか? 俺もしよっかなぁ」
コンビニで求人雑誌を立ち読みしてた。英次が楽しくなれるような、今までの経験を活かせるような仕事がないかなって。もうこの際、一緒に住めなくたっていい。海外なんて遠くじゃなきゃなんでもいい。海外じゃないなら。
「……」
それなのに、なんだよ。このダブルパンチ。
「凪?」
俺の心臓が本当に潰れそうだ。
「おーい、凪」
だって、目の前、大きな通りを挟んだ向こう側の歩道に英次がいた。大好きな人だから見間違えようがない。でも、その隣には、女の人が並んで歩いていた。
「……」
心底見間違いであって欲しいって、潰れそうな心臓のとこをぎゅっと鷲掴みにしながら、思ったよ。
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