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第16話 雨が降る

「ったく、人の決心、ぶった切りやがって」  俺の部屋に着くなり、英次がぼそっとそう呟いた。本当は口が悪くて、不器用なんだ。外じゃすげぇ良い顔しまくるから、こういう顔をした英次が見れるのは俺だけ、家族の俺だけなんだって、嬉しかった。  でも、きっと、あの恋人も見てるんだろうな。もしかしたら俺のことで渋い顔をしてるかもしれない。甥っ子が告ってきたって、邪魔そうに髪をかき上げて言ってるかもしれない。 「決心って、なんだよ。瀬古さんとこで働く決心のことかよ」 「アホか。お前、それなら俺は何しにハローワークに言ったんだよ」 「し……仕事決まった報告、とか?」  そこで思いっきり溜め息を吐かれた。狭い部屋いっぱいに広がった気がする大きな、ものすごく大きな溜め息。 「あのなぁ……」 「行、かねぇの?」  頷いて欲しくて、切に願ったら、また、涙がひとつ零れた。 「……泣くな」 「ごめっ」  勝手に溢れて来るんだってば。英次のことを好きな気持ちが勝手にどんどん膨らんで、諦めるなんて単語を頭の中から追い出す。俺はどうすることもできない。英次のこと、好きで好きでたまらない。 「我慢できなくなる」 「……」 「ったく」  腹でも痛いみたいに顔をぎゅっとしかめて、また、もうそんなに邪魔じゃなさそうな髪を、いつもの癖でかき上げた。 「我慢って、何を?」 「! はぁぁぁっ?」  は? なんで、そこでそんな怒るんだよ。普通に疑問に思うだろうが。だって、英次、我慢とかすげぇ苦手じゃんか。いつだって、真っ先に欲求に従うだろ。アステリを立ち上げた時も不安とか心配とか欠片も感じさせない凛々しい笑顔で前だけ見て突き進んでたし。いつだって怖いもの知らずだっただろ。 「英次?」  我慢って、何を我慢してんの? なんで、そんなしかめっ面してんの? 苦しそう。でも、すっごい、カッコいい。ドキドキする。 「俺……英次のこと、好き」  英次の苦しそうな顔見てたら、涙と同じように、言葉が自然と溢れ出た。どこからともなく落ちてくる雨みたいに、俺の気持ちとか、予定とかそんなん関係なく零れていく。 「ずっと、好きだった。ガキの頃からずっと」  どんどん零れ落ちていく。ぽつり、ぽつりって落ちる、降り始めの雨に濡れるみたいに、足元がさ、好き一色になっていく。 「初恋は英次だった。ずっと今もそのまま。ちょっと、違うかも。あの時よりもずっと、もっとずっと好きだから」  この前みたいに激情にかられて、勢い任せに言っているのとは違う、静かで、日記みたいな告白を、英次が目を丸くして見つめてる。「好き」の形に動く口元を見て、真っ直ぐに見つめる俺の目を見て、そこから零れ落ちていく涙に濡れた頬を見た。 「ノンケの英次が俺のことをただの甥っ子としてしか見れないのはわかってる。でも、俺はやっぱり好きなんだ」  ずっと抱えていた、ぎゅっと手に持っていた言葉を、丁寧に、ゆっくりと英次の前に差し出す。 「だから、このまま、好きでいるくらいは、させてほしいんだ。甥っ子でいるから」  悪態をつく英次を独り占めできなくてもいい。あの恋人が知らない、俺がガキの頃の学生だった英次のこととか、思い出を大事に持っとくから。そのくらい、「可愛い甥っ子」の頼みだと思って許してよ。  そんな願いが届いたのか、英次が口を開きかけた。でも、すぐに何かを飲み込んで、苦しそうに下を向く。 「ごめん。でも、やっぱ、英次が好き」  英次が視線を向けた足元には雨で濡れた歩道みたいに、きっと好きがいっぱい敷き詰められてる。手で雫を掴み取ってはもらえないように、俺の好きもただ降っていくだけで拾ってもらえたりはしないけど。いいんだ、別に。  英次のことを想い続けていられるのならそれでいい。完全に無理だって断られたから、叶うかもしれない、なんて言うふうにはもう思わない。けどさ。 「俺にはずっと大切なやつがいる」  ずっとこっそり想ってるだけなら、大切な英次の迷惑にはならないだろ? そんくらいのポジティブならいいだろ? 「ずっと、大事にしてきた。大切で、そいつが幸せになるのなら、笑うのならなんでもしてやりたいって思ってる。今も、そうだ」  英次が真っ直ぐ、俺を見た。 「そいつの幸せは俺にとっての最優先だ。自分の気持ちなんてどうだっていい。どんなに」  英次の瞳に俺が映ってるのが見える。そしたら、俺の瞳に英次が写ってる? 「どんなに好きでも」  大きな手。骨っぽくて、俺のことも軽々と持ち上げる力強い手。その掌が目の前に差し出されたんだ。 「俺、英次のこと、好きだよ」  そして、俺の「好き」は雨みたいに勝手に溢れて、零れて。 「あぁ」  落っこちなかった。 「俺も凪のことを想ってる」  英次の大きな掌の上に落っこちた。 「……一生、言うつもりなんてなかった」 「えい……」 「俺はお前の叔父で、たったひとりの家族だからな。叔父がそんなもん抱いてるって知ったら、お前は怖くなるだろ? 相手は男で、ひとまわりも歳が離れてる叔父。俺が言った時点で、お前はたったひとりの家族を」 「俺! 英次のこと、好きっ!」 「……あぁ」  また、英次の掌の上に落ちた。 「好きだよ」 「あぁ」 「すっごい、大好き」 「あぁ」  ぽつん、だった雨がぽつぽつと、少しずつ増えて落ちても、英次の掌が全部受け取ってくれる。  たったひとりだけの家族。英次を好きになっちゃいけない理由なんて山のようにあるのかもしれない。でも、俺はそんなの全部蹴散らして、この「好き」を握り締めてた。だって、雨は「止まってください」っつったって止まらない。これもそうだよ。同じだ。何かの気まぐれみたいに、ふわりと始まってる。こっちの事情とか不都合とかタイミングとか全部無視して、勝手に降るんだ。 「英次のこと、好き」 「あぁ」  その雨を英次の掌が受け取ってくれる。全部。 「どーしよ、俺、今、死んじゃいそうに嬉しい」 「……バカ、縁起でもねぇこと言うな」  だって、俺丸ごとを英次の掌が、腕が受け取ってくれたんだ。 「好きだよ……凪……」  溶けるって。そんなん、耳元でさ、低い声が絞り出すように吐息混じりに囁くとかしちゃったら、蕩けておかしくなるって。 「やばい、英次」 「?」 「今日かも」  俺の人生最良の日は――そう言ったら、決めるの早ぇなって英次が耳元で小さく笑った。

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