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第26話 ハニーハニーアップル

「っぷ、ぷぷぷぷ」  部屋に甘いハニーアップルの香りが広がる。どうぞって、持ってきてくれたんだ。男性だから甘いお菓子よりもこちらかと思いましてって。フレーバーティー。しかもすごい高いやつ。 「おい、笑うな」 「だってさ……っぷ!」 「凪! てめぇっ!」 「ぎゃはははははは! こぼ、零れるって! 紅茶、零れるって! 英次ってば! これ、高いやつっ……ン、ん……ん、ふぁ」  脇がものすごく弱いって知ってるくせにくすぐろうとする。その手から逃げたいけど、マグカップ持っててままならない。慌ててストップって声を上げたら、くすぐり攻撃を一時停止してくれた。そして、俺の手から奪われた紅茶のマグカップがテーブルの上に置かれた音が、キスの濡れた音に混ざる。 「……ン」  昨日がファーストキスだった。でもそのあと、数え切れないくらいにキスしたから、これが何度目のキスなのかは、わからない。  英次のキス、すごい気持ちイイ。って、他を知らないから比べようがないんだけどさ。気持ち良くて、美味しくて、ずっと味わってたい。 「ン、ふっ……」  キス、が終わっちゃう時、名残惜しくて薄目を開けたら、英次の舌が見えた。俺がしゃぶりついたせいで赤くなった舌。 「っぷ」 「笑うなっつうの」 「だって、あの人、すっげぇ真剣だったんだもん」 「そりゃ、そうもなるだろ」  あの人っていうのは新田礼子さん。俺が英次の恋人なんじゃないだろうかと疑うくらいに美人で大人の女の人って感じがした。彼女は恋人じゃなかったけど、じゃあなんなんだよって思うじゃん。だから訊こうと思ったら、その人が部屋にいたんだ。  びっくりした。一瞬頭の中真っ白になった。 ――藤志乃英次様より伺ってらっしゃるかと思うのですが。 そして、その次の瞬間、英次のことをさらいに来たのかと思って、心臓がぎゅっと力んで身構えたけど。 ――財産運営のことに関して。  その言葉を聞いて全身の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。 ――ご興味ございますか?  そう、まるで、彼女の話を聞く気満々でその場に座り込んだかのように。 「笑うなよ」 「だって、笑っちゃうよ」  英次なりに考えてくれた俺の将来。 「仕方ねぇだろ。一緒にいたら、いつか絶対に襲いそうだったから、距離、置こうと思ったんだよ。今までみたいに」 「もっと離れようとしてたくせに」  今まで、親父たちの残してくれた財産は後継人っていう形で英次が管理してくれていた。家賃とか、学費も、親父たちが組んでくれた保険でまかなってくれてたんだけど。それを今後、あの新田さんっていう美人が引き受ける、かもしれなかったんだ。 「そりゃっ……もう、限界だったからな」  英次が探してくれた部屋なのに、一歩だって上がってくれなかったのも、単身者用だからって理由引っ張り出して出て行こうとしたのも、全部、俺を好きで抑えられなかったら、だなんて聞いたら笑うじゃん。嬉しくて、くすぐったくて、まるで今朝、寝起きにしたキスみたいに幸せな気分になる。  良い人、だった。手土産の紅茶、すげぇ美味い。高そうなやつ。美味しいよ? 英次も飲めばいいのに。 向こうは仕事なんだろうけど、一生懸命に俺の将来のことを考えてくれてて、英次が、俺の金銭的なこととか任せようって思ってくれた人なんだって、感謝した。  でも、英次が断った。それでも、何か相談したいことがあれば、ぜひにって言われて、名刺もらっておいた。 「英次」 「……なんだよ」  俺、見たんだよ? 言ったけど、英次が新田さんと歩いてるとこ見たんだ。楽しそうに、優しく笑ってた。英次がすごく微笑んでて、俺はそれにショックを受けてたけどさ。  ねぇ。あの時、話してたのってさ、やっぱ、俺のこと? だったりする? 新田さんが英次のこと、すごく甥っ子思いの素敵なご家族って褒めてたね。俺のことを親身になって考えてくれる、こんな素敵な叔父を持てて、羨ましいですって。とても、真剣に俺のことを考えてくれてるんだって。  うん。俺もそう思います。  そう答えた。  甥っ子として。服の下に英次のつけてくれた唇の痕をたくさん隠しながら。まるでかくれんぼをしているみたいにドキドキしてた。  英次のつけてくれたキスの痕は首筋にもいっぱいあって、ギリギリ見えちゃいそうなのに、きっと英次がそこんとこを上手にやってるんだと思う。見えそうなのに見えなくて、新田さんの話を聞いてる間だけじゃなくて、ずっと一日、そこに意識が傾いてた。 「英次のこと、好き」 ――将来的には英次様の手を離れて、自立されるかと思うのですが、万が一の備えとして。  俺は静かに聞いていた。聞くだけでいいから。何かの時に役に立ててもらえればいいからって、新田さんが一生懸命に話す俺の「将来」を聞きながら、ずっと思ってた。  俺の将来には英次がいる。  そう思って、ずっと胸のところがくすぐったかった。 「英次……」 「……」 「触って?」  大きな掌を自分の心臓の上に両手使って重ねた。トクントクンって聞こえる? 感じる? 俺の心臓の音。少し早い? 今、ドキドキしてるんだ。  さっきまで、ここに新田さんがいた。普通の部屋で、普通の甥っ子と叔父としてここに座って話しを聞いてた。甥っ子を心配して、プロの財産運営に頼るべきかと考える叔父と、その叔父に大事にされている甥っ子、みたいな感じで。座って話し聞いて、お茶飲んで。 「英次、腹、空いた?」  で、あの人が帰ってから、もらったお茶を入れた。 「なんか、このタイミングで訊かれると」  お茶飲みながら、部屋に甘いハニーアップルの香りが広がって、空気が変わる。 「英次……夕飯、もちょっと、後、でもいい?」 「……」 「ダメ?」  部屋の空気が恋人同士のそれになる。誰にも知られちゃいけない関係だから、ふたりっきりになった時だけ。あとはこの好きを知らんぷりして、過ごさないといけない。さっき新田さんの前でそうしていたように。  でも、それがまたドキドキさせた。英次の掌に重なる心音でそれが伝わっていたらいいのに。 「言っただろ?」 「?」  布の擦れる音がして、そして、直に触れてくれる、俺の好きな英次の指先。 「俺はお前のこと甘やかしたいんだからって」 「あっ……ン」  そして、ハニーアップルよりも甘い甘い自分の声が部屋に広がった。

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